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マドンナ・リリィ

 夜中に起きて、水の中に手を浸していた、ぴちゃぴちゃと。
 そうすると開け放した裏木戸をくぐって、紅い眸を持つ人が入って来るのだと、誰かが言った。
 紅い眸を持つ人にうまく対処できれば良し、できなければ空を飛んで山を越えてどこかに連れ去られてしまうのだって。

 くだらないけれども、この際だから、空を飛んで山を越えてどこかに連れ去られてしまうのも、悪くない。
 そんなことを思って、夜中に起きた。

 手桶に水をくんで両手を浸した。
 さらさらと、月が映れば美しい水だった。
 夜の闇に馴染んで、とろとろ揺れた。
 百合を摘んで、はなびらを落とした。

  マドンナ・リリィ。

 夜が耳元で囁いた。

 紅い眸の人は来なかった。
 代わりに狩人が裏木戸をくぐった。
 手桶にはった、夜の闇と空の月を映した水に両手をひたしたままで、青黒くもぼんやり光るようなその人の衣裳を見つめた。
 青白くもぼんやり光るようなその人の皮膚を見ていた。

 水面から私の散らした百合のはなびらを、青白く細い指で取り除けてその人は静かに呟いた。

  マドンナ・リリィ。

 甘すぎず、低すぎず、少年の名残を含むような、穏やかな声で、その人は名を呼んだ。

  マドンナ・リリィ。
  貴女は夜を見た。

 宵闇。
 曙。
 貴方は朝を知る。
 闇に潜んで私を追って。

 白い百合のはなびらは、狩人の指に触れたさきから、すっぱりと切れて、ほとほとと、地に落ちる。泥に穢れて白きを失う。

  あの人は私が二つに切った。
  川に流すと、水は真紅に染まりましたよ。
  まるであの人の眸のように。

  マドンナ・リリィ、

 狩人が告げる、闇よりも色無き声で、風よりも音無き声で、その人は名を呼んだ。青白い頬で、青黒い裾揺らめかし。

  二度と光の下へ、お出まし遊ばすな。

 マドンナ・リリィ、
 私は、夜を見た。

[2003/5/19 (Mon)]

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