トロピカピックル
気の毒に僕の想い人は気が触れてしまった。先夜の火事で大事な手鞠を焼失したのだ。
低い声で穏やかに話す、艶やかに黒い長い髪を揺らしながら、地味だけれど上品な着物でいつも、窓際の畳の上にしんなり鎮座して、彼女が膝の上で転がしていたあの手鞠。
あの手鞠を消失してから僕の想い人は気の毒に、気の毒な想い人は気が触れてしまった。
逃げる最中、飛び火に焼かれ縮れた髪もそのままに、どの長押から引っ張り出したか、派手な深紅の振り袖を着て。眸はまるで月よりも円く、唇は、そう、桜の下の狂女の如く。
落ち武者が参られる、追って侍が参られる、追って剣鬼が参られる、
歌を紡ぎなされよ、鳥を絞めなされよ、
血が貴ばれましょうぞ。
気の毒に彼女は気が触れてしまった。先夜の大火に手鞠を焼失してしまったから。僕の想い人は気が触れてしまった。
屋根の崩れた料亭の中へ、残した手鞠を取りに戻ろうと走る彼女を押しとどめたのは僕だった。押さえる僕の腕を引っ掻いて引っ掻いて泣き叫んで泣きわめいて、暴れ疲れた挙げ句に彼女は途切れた。二度と正気に戻らなかった。
焦っても無駄、足掻いても、無駄。
尖った鎌が胸に喰い入り、そこから悪意が流れ込むのです、
貴方の恋を押し潰すでしょう。
気の毒な彼女の大切な手鞠が、焼失してしまった料亭の火事の夜は、遠い外国の海で小さな安物の船が沈んでいた。僕の想い人は気が触れてしまったけれど、彼女の焼失した手鞠の中には一房の髪の毛が仕込められていた。遠い外国の海で沈んだ小さな船の船室に逃げ遅れた男の髪が、先夜の火事で厭な臭いを発しながら燃え落ちた時、僕の想い人は気が触れてしまった、可哀想に。
気が触れてしまった。
[2004/1/13 (Tue)]
| 2004 / 習作 |