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Quixote / 幻影が僕を導く

 あの時、踊り場に立っていたのは君でなかったかもしれない。
 あの時、一瞬で消えてしまったから、僕の見たただの幻想であったかもしれない。
 僕は現に今でもあれが息をするナマモノだったとは思っていない。
 昼間なのに建物に人の気配が感じられずに、外から聞こえる筈のどんな嬌声も冬の閉め切った窓に遮断されて廊下は静まりかえり、まるで異様な静粛な、そんな空間に僕は立っていた。
 世界から人も音も消えたようだった。
 講義と講義の合間の休みに、暖房も切れていて、廊下は底冷えのする寒さだった。
 僕は置き忘れた眼鏡を探して人のいない教室をさまよって、そこで無人のおそろしさに気がついて追われるように廊下へと逃げ出てきた時だった。廊下の突き当たりの階段の踊り場に、君が立っていたのが見えた。身体を壁から少し離して横向きの、少し俯いた顎のあたりは死人のように青白く、寂しげで、寒そうで、けれど厳かで、僕は見とれた。
 君は居たわけがない。
 そのふたつき前にあの土地を去った君が、今更そこに居たわけがない。
 けれど僕は見とれた。
 それまでと変わらずに、俯いて目立たない君がまるで自然にその場所にとけ込んで、立っていたことが僕には不思議ではなかった。
 そうして一瞬目を、廊下の左側に並ぶ数ある教室の扉に移して、また君に戻したらば、君はもうその寒く無人の、音のない空間の、どこにも存在していなかった。

 背骨に沿って、冷たい風が駆け上がったように感じて、止めていた呼吸が一斉に肺から喉元へわき上がるように感じて、僕はどこか言いようのない緊張を感じたその後に、一呼吸置いて予鈴が響いて、どやどやと生徒達の階段を駆け上がってくる音がした。

 あの厳かな冬の廊下を、僕は時々思い出す。
 君のその後を、僕は何も誰からも聴かされてはいない。
 君がまるでさらわれるようにして僕の前から姿を消したあの朝に、僕はバスがきつい右のカーブをまわるのにあわせてこめかみを冷たい硝子に押し当てながら、誰にともなく、どうか君の僕の腕より奪われることのないように、と、胸の裡で唱えたのだった、何故そんなことを考えたのかもわからないままに。その時はただ、語呂がいいので浮かんだのだろうとやり過ごしながら。
 バスを降りてから、君と冬を迎えないことを知って、人前で僕は恥もなく泣いた。
 幼子のように、君の喪失を悲しんで泣いた。
 そして雪の降り出した冬の始まりに、静粛で荘厳な空間で君の幻を目にして、僕は君のその後を何も誰からも聴かされてはいない。
 どこに暮らしているのか、誰と暮らしているのか、何故まるでさらわれるようにして突然に僕の前から姿を消したのか。
 一度だけ眠れない夜に、足の小指の爪ほどの雪片が落ちる下を君の昔の家まで出かけて行って、紫檀で塗られたような不思議な色の扉の前に佇んで、郵便受けの上に君の名前の刻まれた金のプレートの剥がされた跡のうっすらと残るのを見つけて何故か心落ち着き、それから自分の部屋に戻って室内の暖かさにわけのわからない慟哭を誘われ滔々と涙を流したのを除いては、君の為に感情激しく揺さぶられることもない。

 厳かな冬の廊下と、そこばかり鮮やかに色の浮き出た郵便受けのプレートの跡、その二つの記憶ばかりが、混沌と共存する日々の数多の雑事の中より浮きのぼり、高いところから僕を見下ろす。僕はこうして君を目に見えぬほどの細かな刻みで忘れ行き、離れ去くけれどその静寂に守られた二つの記憶ばかりは、この先もいつまでも高いところから僕を見下ろして、冬の侘びしさに僕を休めてくれるかと思う。

[2004/11/01]

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