或る春
かいま見た女の顔は、血の滲んだ口元に薄い笑みを浮かべたそれは、一瞬のうちに背を舐め上がり、この身体に火を放ったようにも見えた。
厚い銅板を一枚隔てた向こうから届く声。
しゅうしゅうという熱い息が狭間から、隔てられた空間に忍び入る。
絹糸のように細い声が流れ込む。
なぜお逃げになるのです。
なぜそのように拒まれる。
ずるりと、鐘の側面を滑る鱗の音がした。
身体が、灼けるようにじりじりと。
熱い。
空気が身を焦がす。
ぎりり。
鐘が低い音をたてて、また一つ軋んだようだ。
*
「或る春のことでございました」
老いた僧は、歩を進めながら語り始めた。桜の見事な寺の境内を、滑るように歩みながら娘を導いて行く。
娘は瞳を細くして、日光を避けるように俯いていた。風が起こるたび、その黒髪が、濡れたように艶を放ちながら背でうねる。
「若い僧侶が駆け込んで参りましてな。まぁ美しい容貌をした、涼しげな目元の青年でございましたが。
これが血相を変えて叫ぶのでございます。
どうしようもない、拙僧には如何ともしがたい。
あれはそれを察してくださらぬ。
もうあの山を越えてくる。
どうかかくまってくだされ、さもなくば拙僧は殺される。
青い顔をして、紫衣にしがみつき、それはもう必死の形相をしておりました。
これは修行中の身を山賊にでも襲われたかと思い問いただしますと、どうもそういう訳でもございません。水を与えまして、少し落ち着かせてから話を聞いてみれば、どうやらこの若僧は、真砂の里からずっと、一人の女子に追われて来たという話。
女子一人に何をそれほど、とは思いましたが、尋常ではないその様子に、彼を鐘の中に隠すことにいたしました。
そうしてから私どもは鐘の見える場所で、はたして来るべきものを待ち受けておりましたが、それから一刻の間に寺の門をくぐったものは、犬の子一匹おりませぬ。辺りは丁度、今時分のように霞むほどに桜が満開で、なんとも穏やかな日でございました。
…そう、彼を隠したのは、この鐘の内にございます」
そう言って、歩を止めた老僧の示した青銅色の鐘は、わきたつような桜の中に、忽然と自身を据えていた。
娘が初めて顔を上げる。鐘を仰ぐその表情は、見上げる視線とは対照的に、どこか見下すような態度を備えていた。
桜よりもまだ白い手で、顔にかかる黒髪を、すぅと除ける。
舐めるようなその手つきに、不気味な艶かしさが漂った。
どろどろと地を拭うような緩い風が吹き、運ばれた雲に陽が遮られる。
背後からまとわりつく邪気。
僧が娘を振り返ると、娘は刺すような瞳で彼を見返してくる。
血のように赤い舌先を覗かせ、己の唇を端から端へとなぞり、女は微笑んだ。驚くほど高い、けれど息のみで囁くような声が、一瞬のうちに空を泳いで確かに鼓膜に届く。
「それからどうなさりました、お坊様」
哀切の情に捕らわれた。
さまよい続け、心までも化生となってゆく此の娘。
老僧の表情が、ふっと和らぐ。娘を圧すように、低く太い彼の声。
「次に鐘を持ち上げた時、もはや若僧は…」
相手を正面から見据えた。女は表情を変えずに応じる。
「息絶えていたと」
「骨、すらも残ってはおりませなんだ。わずかな灰があったばかり。鐘の中で火が起こったようにも思えぬ。そもそも、骨まで焼き尽くすほどの火力なら、鐘が無傷であるわけがない。そうすると、実は彼は死んではおらず、自力で鐘から這い出てどこぞへ逃れたか…。まったくわけがわかりませぬ」
僧は鐘を背にして娘と向き合った。手の中で微かに、じゃらりと数珠を鳴らす。
「娘御。何があったのか、話してはいただけぬか」
髪がなびいて表情を隠す。鐘はただ、そこに在った。そしてその下に。
あの石の上で、あの日この娘は。
細い指から、雫が落ちた。
指先を隠すように前で手を組んで、鐘を見上げながら娘は、ぽつりぽつりと語り始める。
「わたくしはここに立っておりました。そうしてあの方は、この中に。
そのように狭い処に御自身を追い込まれてまで、わたくしを拒まれた。
お坊様、仏道では、愛という言を禁ずるのでございますか。それともあの方は仏道を盾に、ただわたくしが疎ましいのだと、伝えたかっただけなのでございましょうか。
わたくしは、何の責め句も、発しはいたしませなんだ。ただここにおりました。
そんなにまでされてもあの方が愛しく、お側にこの身を置きたく、いつしか鐘に、ぴたりと身を寄り添えていただけでございます。あの方は、鐘の中で段々と、果てて逝かれた。
あの方を殺したものがあるとすれば、それは御自身の自責の念。わたくしを裏切ったという罪の悔恨が、あの方を焼き尽くしたのでございます。鐘がとろけもせぬは道理。火はあの方の心から燃えいで、あの方と共に消沈したのですから。
わたくしには、微塵も洩らさず聞き取ることができました。燃え上がる衣の溶け流れて行く音も、肉を焼かれていくあの方の苦悶の呻きも、最後の呼吸の逃れる音すら。」
組まれた娘の指先から、今ではとめどなく、ひたひたと雫が垂れていた。
老僧は思わず目を覆う。
「そこまで、そこまでしなければならなかったのか、貴女は…」
哀しげに娘は微笑んだ。
「そうするしか、なかったのです」
「自ら化生となることを選ばれし者は、浄土には到底、たどり着けますまいぞ」
諭すような僧の言にも、娘は笑った。
「もとよりこの身は散っております。日高の水に洗われ、川底をさすらうばかりのわたくしに、今更、何を」
髪が風に踊る。さながら蛇が桜の海を泳ぎ行くように、上へ下へと。
「恋に狂い、恋に散ったならそれも本望。蛇性の化け物と恐れる者もありましょうが、お坊様、わたくしには、わたくしのしたことの、何がいけないのかがわかりませぬ。
恋を裏切られたのはあのお方。恋い狂うあまり病に倒れ、一度は浄土に上がりかけましたわたくしが、再び浮き世に舞い戻りしは、偏にあのお方への思慕の情からでございます。此の世を離れることができずに彼岸より川を越えるは、ただわたくしの恋心が為した業。
恋は、人が操れるものではございませぬ。あの方をこうまで恋い慕うわたくしを、それでも貴方は責められるというのですか。裏切られ、拒まれ、捨て置かれてもまだ恋い慕う娘の気持ちは、非難させられしものにございまするか。それともあの方と同じ、やはり僧侶の貴方には、わかりかねますことなのでしょうか…」
そして娘は濡れた手をかざして鐘に触れた。
あの時の熱を、今はこの鐘がその中に封じている。
その熱に、湧くように流れ出る水がしゅうしゅうと、気に解けて、肌を吸い付けて。
「…おいとまいたします」
焼けた手を鐘から離し、娘はその場から波の如く身体を引いた。
細く白い蛇が、散った桜の花びらをひとすじ分けてするすると進んで行く。僧はそれを法華を唱えて見送ってから、ふと視線を落とし、某に気がついた。
*
いつからいたのであろうと訝しく思いつつ、己の足下で桜に埋もれていた太い蛇を追いやってから老僧は、その鐘に手を触れてみる。
梵鐘はただ清と冷たく、彼の皮膚を拒絶した。
Inspired by:『京鹿子娘道成寺』
| 2000 / オハナシ |