冬
その人が私に嘘をついたことはなかった。
その人はいつも自分の心に正直にあった。
どこまでも優しげな目をして私を映す。
そうして何も言わずに、微笑んだだけで。
*
長すぎた夏がふと終わる。
秋はこなかった。気がつくと季節は冬になっていた。
庭の杏の葉が一枚、風に吹かれてひらひらと舞い降りる。その瞬間に、夏は完全に追いやられたように見えた。
あれからまた一年が経ってしまったのだと気づく。
冬の午後特有の空々しい時間が、重い霧のように足下に停滞している。テレビからは八十年代の恋愛映画が、くるくるとシーンを替えながら押し出されてきた。男女の上に広がるのは、それもまた、乾燥して色のあせた冬の空。
部屋の隅で、その花びらがついに茎を離れた。
色褪せて乾燥した花弁が、床に砕ける。
かさかさと、破片すらも風に飛ばされて行く。
「花が」
その声に彼が顔を上げた。怪訝そうに眉を寄せる。
花が枯れた、ついに枯れてしまった。
そう告げると、彼は表情を変えずにまた視線を外へ飛ばした。しかし直後、思い直したようにこちらを向くと、微かに笑ってこう言った。
「気がついたのですね」
ええ。やっと。
この花はいったい何時からこんな姿になっていたのか。夏が過ぎ去ってから本当は、どれくらいの時間が過ぎ去っていたのだろうか。
その声に男は笑う。
何がおかしいのかと更に問えば、その人は言った。
「元より花など咲いていなかったのですよ」
すべてあなたのみていた幻覚なのだと。
夏など訪れたことはなかった。
太陽に灼かれたことなどなかった。
肌に感じた熱は偽りだった。
瞳に残る花弁の色はまやかしだった。
夏など訪れたことはなかった。
「やっと、気付かれたのですね」
蝋燭の炎が吹かれるように、その姿は一瞬ぐらりと揺らいでかき消えた。
気がつけばまた、雪原の彼方で息絶えている己の姿。
*
その人が私に嘘をついたことはなかった。
愛などという言葉は一度も口にせず。
その人が私に嘘をついたことはなかった。
| 2000 / オハナシ |