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最終燧火


 一月二十日 Nの見舞い

 「けれど、念じただけでは人の命は消えないものだから」

 開口一番に彼女はそう言った。
 手首に撒かれた包帯の白が、やけに痛々しくてかなわない。その中程にじわりと滲んでいる染みは血だろうか。
 あの細い手首を、どれほど深く切り裂いたのか。
 頚についた紫色の痣も、大きめの瞳の下に濃い影を作る隈も、それらの全てが彼女の外見を変えていた。この前出逢った時には、あれほど朗らかにころころと笑っていた人が、いったいどのような不幸に遭って、ここまで荒んでしまえたものか。
 仕方なく無言で微笑んで、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。窓の外には殺風景な冬の庭が広がっている。
 何を話したものだろうか。
 当たり障りの無い話題を探しながら、視線を部屋のあちこちに飛ばしてみる。
 何もない部屋だった。
 角の剥がれかけた色あせた壁紙。枕元に置かれた小さな机。その上に置かれた、包帯だのガーゼだの、そしてそれから漂う消毒臭が、すきま風にのって時折鼻先をかすめた。

 「ゆめをみました」

 唐突に彼女が声をあげる。

 「あなたもそこにおいでだったわ。
 学校のようなところで、私は誰かに手を引かれて、何かから逃げていたのです。とても恐ろしい顔の男の人が私たちのことを見つめていて、私は怖くて、早くそこから逃げたかった。けれど坂が急で、あまり急で、あと二、三歩のところでつい立ち止まってしまった。
 そうしたらその人が、私の連れの人に、そう、私の手を引いていた人はきっと私の恋人だったのですけれど、その人に向かって、その女性の方は酔っておられるようだ、などと言うものだから、私は恐ろしくて恐ろしくて。
 本当に恐ろしかったのです。顔の皮膚が焼けただれたようになっていて、いいえ、それよりも、眼が、とても恐ろしかった。見るもの全てをひどく憎んでいるような、悪意のこもった眼をしていたのです。そんな人が、私を、酔っているようだなどと言って、どこかへ連れて行こうとするのです。恐ろしいでしょう?

 恐ろしかったのです。
 どうやってやりすごしたのかわかりません。ゆめ、ですから。
 その次は、講堂のようなところにいました。大勢の人がいたので、ここに紛れていればその何かに捕まらないと思ったのですけれど。けれど、見つかって。その瞬間、大勢いた人々が一斉にいなくなってしまって、私たちは殺されそうになって、抵抗したのです。
 …ああ、やっぱり恋人じゃなかったんだわ、あの人。
 まあいいでしょう、仕方がないですものね。
 どこまでお話しいたしましたか?ああそうです、闘ったところ。
 そこで、何故か私は自由になりました。私はそれ以上狙われなかった。けれど相変わらず私の連れの人は、取っ組み合いのすごい喧嘩をしていて、私は、その人を助けなければ、と思いました。その人が負ければ、私も結局殺されてしまうのだ、と思ったものですから。いいえ、ただ思っただけではなくて…そういう、決まり事だったのです。

 その時でした。私、あなたに気が付きましたわ。大きな講堂の隅の方に、試験の時にでも使うような大きな机があって、私たちがすごい音をたてて闘争をしているというのに、あなたはそんなものとは全然無関係のような顔をして、なにか書き物をしていらっしゃった。

 どうして助けてくれないのか。

 あなたを見つけた時、最初に思ったのはそれでした。私たちにちっとも気付かないような顔をして、なんて冷たい人なのかしら、と。それでも私は、あなたが私を慕っていることを知っていましたから、いいえ、お怒りにならないでください、ゆめ、なのですから。そういうことはよくありますでしょう、ゆめの中では。
 それでね、私、あなたのところに行って、頼みましたの。助けてくださるように。おかしなことですけど、私の連れは必死の戦いをしているというのに私たち、ひどく呑気な会話をいたしました。そして、もちろんあなたは来てくださいましたけど、

 …ここからが肝心なのです。

 あなたは私の頼みに応じて来てはくださった。けれど、いざ敵を前にしたらば、とても冷たい眼になって、催眠術にでもかかったように、何もなさらなかった。

 どれほどショックだったか、おわかりになりますか。
 あなたのその眼をみた時の私の顔。自分の顔なのに、よく覚えております。

 この人も、私を助けてはくださらない。
 この人でさえも。

 そう思いました。あなたに気付いた時に思ったのとはまた違う気持ちで。
 最初に助けてくださらなかったことなどはどうでもいいのです。私が頼まないから助けてくれないのだ、変な言い方ですけど、遠慮なさっているのだと思いました。
 けれど、私が頼めば、きっと助けてくださるに違いないと思って。
 そうして、現にあなたは承諾して、来てくださったのに。そこまででした。
 あなたは、十中、九までは私の期待に応えてくださった。けれど、最後の一番肝心なところで躊躇なさり、私を裏切られた。それがなければ、それまでの九などは意味を持ちません。

 おわかりになります?私が、どう思ったか。
 おわかりになりますか。
 …お気づきにならないのですね。

 私は違います」
 
 彼女は穏やかに、けれど怖ろしく冷たい口調でこう言った。

 「あなたは、私の上で吠えてみたかっただけでしょう」

 終わり方も唐突だった。そこまで話すと彼女は静かに眼を閉じて、そうして一度も口を開かなかった。
 私は静かに立ち上がり、そっと部屋を抜け出した。

     *

 二月十八日 Sの来訪

 取り次ぎに出た婦人は、犀のように堂々とした体格をしていた。
 氷のように冷たい表情を微塵も崩さないまま、言い放つ。
 「お引き取りください」
 この女に会いに来たわけではないのに、名乗りも挙げないうちから追い返される筋合いはない。しかし余計なことを口に出して諍いをする気も無かったので、無言で同じ場所に佇んでいた。
 婦人は嫌悪を隠そうとせず、鬱陶しげに溜息をついた。
 「お引き取りくださいますか。 病み上がりなうえ鬱も入り錯乱していて、とても人と会えるような状況ではありませんので。」

 それはそうなのだろう。けれどそこで引き下がるわけにはいかなかった。
 知らせを聞いた日から何度と無く躊躇し、やっと決心して足を向けることができたのである。何としても彼女の顔を見ないことには、この家を辞去するつもりはなかった。
 「顔が見たいだけです。何も心をかき乱すことをしようなどと思ってはいません」
 婦人の目を直視しながらそう言って、やっと部屋に通された。五分だけ、とぶっきらぼうに言い捨てて去っていく。
 寝台の上に寝ていたその人が、少し首をもたげてこちらを見る。微笑みを作る一瞬の隙に、失望の色が浮かんだのを見逃せなかった。

 この人はまだ、来るあてもない男を待っている。

 さんざ繰り返した挨拶も見舞いの言葉も、出てはこなかった。沈黙がそのままこの娘を何処か遠い処に誘い込んでしまいそうで、ただ言葉を拾う。

 「何故です」

 口に出して即座に、訊いてはならないことだったように思い、一瞬はっとする。けれど彼女はあまりにも自然に、笑いながら答えを返してきた。

 「だって、どうにもならないでしょう」

 病のことを言っているのか、それともあの男のことなのか。自分には計りかねた。勧められるままに腰をおろす。

 「あなたは私を愚か者だと思っておられる」

 嬉しそうに微笑みながら彼女は言った。
 この人はいつも笑っていたような気がする。それにつられて、こちらの表情も緩むのだ。椅子を少し寝台の方に寄せてから彼女の手を取った。あの頃は、二人きりになると気まずさから無口になったものだが、今日は違った。

 「愚かだなどと、思ったことはありません。あなたは少し無鉄砲なだけです。けれど、」

 覗き込む瞳の奥に、虚ろな穴が見えた。
 もうこの人をこちらに連れ戻すことは叶うまい。
 そう気付き、戦慄した。動揺を押し殺して一声絞り出す。
 
 「けれど今回は、度が過ぎましたね」

 彼女はまた笑った。あなたの声がすきだと言う。戦慄を底に秘めたこの声が。
 どうしようもなく、泣きたくなった。

 窓の外で氷柱が落ちる。
 がしゃんと、地に砕けるような音が硝子を微かに震わせ、そして部屋の空気までも。

 「ご存知ですか、船が沈んだでしょう」

 抑えた声で彼女が言った。
 船が?
 そんな知らせが新聞にあっただろうかと思い、問い返す。

 「ええ、船です。私とあなたが乗った。
 忘れてしまわれたのですね。ほら、あなたの父上が爆破して、沈んでしまったあの船のことです。私とあなたは揃って海に放り出された。あなたはご存知なかったでしょう、あれが父上の仕業だということは。いいえ、知っておられたのですね、本当は。だからあのように、口もきかず、指すら動かさないようになってしまわれて」

 何の話を

 「私、あなたを引っ張って、川をさかのぼって、必死に逃げたじゃないですか。忘れてしまわれたんですか?
 あの時はおかしかったわ。行き交う人々がみな、水の中を歩いているのですもの。まるで、川が道路になっているようだった。私は幾度も幾度も川が分岐している処に立って、右に行くか左に行くか迷って、正しい道を知っているのはあなただけなのに、あなたはまるで人形のように、ただ虚ろな眼をしておられるだけだった。
 そのうち、誰の姿も見かけなくなりました。
 水は黒くなり、濁り、両岸に繁る木々も濃くなり日の光すらさしこまず。それまではせいぜい、くるぶしを隠す程度の浅い川だったのが、急に膝までの深さになり、腰に至り。
 私は厭でした。進みたくなかった。
 けれどあなたの為に進もうと思い、一歩踏み出した途端に、足がつかないような深みに落ちたのです。
 水の流れはあまりにも急で、私は近くにあった木の根につかまり、ただ流されないようにするので精一杯でした。
 けれど本当に怖かったのは、足の下に広がる水だった。
 今にも何かが私の脚を引いて、暗い川底に引き込まれるのではないかと思い、本当に怖ろしかった。
 戻ろうと思っても、あなたを支えている手を離したらあなたが流されてしまう。けれどその手を離さなければ、必ず、水の底にいる何かに殺される。
 そこで私は、」

 かたりと背後で音がした。振り向くと、先刻の婦人がドアにすがりつくようにして立っている。その顔には同情と恐怖が顕著に表れていた。
 まるでこれから殺害する獲物に、最後の一瞥をおくる犯罪者のようだと思った。

 直後、

 「私は手を離しました」

 寝台に向き直る。

 「私は手を離して、自分を守り、あなたを流れにまかせた。」

 凄惨。そうとしか例えられないような、けれどひどく美しい顔でその人は笑う。

 「それでも私、あなたを他の人より愛していたと思います」

 もう一度背後を振り返れば、婦人は先刻と同じ無表情のままで、招くように扉を大きく開け放していた。
 腰を上げる。握っていた彼女の手が、するりと抜けて布団の上に落ちた。
 多分これが最後になるのだろう。もう一度肌に触れて体温を確かめたい気もしたが、それをすれば二度と離す決心がつかなくなると思い、逃げるように部屋を後にした。

 廊下で待っていた婦人が、吐き出すように言う。

 「もうあの娘は、夢と現実の区別もつかないようになって…」

 この女性も、あの人をどうしようもないほど愛している。

   *

 三月二十七日 Dの離別

 こけた頬が怖ろしかった。直視できなかった。
 この人を失うということが、自分にとってどれほどの喪失かが、そのやつれた顔を見るだけでも充分にうかがえる。けれどその人は無情にも、その細い指で私の頬をなぞり呟くのだった。

 「あなたが私を選んだ理由がわかります。
 年上の女性に、母親のぬくもりを求めていたのでしょう?」

 否定をする気にもなれず、ただ声を聴くだけでそれまでの過去が全て蘇るようで、一言でも発すれば泣き出しそうで、きつく唇を噛む。

 彼女は、もしその声だけ聴いたなら、全く健康な人間かと間違うほど明るい口調で話しはじめた。

 「私が書いた手紙、まだ持っておられますか?私、あの手紙を書く前の夜に、夢をみたんです。きっとうまく説明できないわ。だけどお話ししなくちゃいけないわね。
 試験の後であなたが車で送ってくださったんです。少し離れた処に車を置いて、私たちは手をとって歩きました。歩を進めるごとに暖かな空気に包まれていくように、私たちの周囲をとりまいている幸福を感じましたわ。ええ、何も言わなければ良かったのです。
 けれど私は今しかないと思い、こうお尋ねしたわ。

 『何か私に話さなければいけないことはありませんか』と。

 多分、子供騙しの囁きでも欲しかったのでしょう。それかただ一言、たった一言の慰めでも良かったのです。私はそれを口にすることが、あなたにとっては至極簡単なことだと思いました。
 だってそうでしょう、その場には私とあなたの二人きりしかいなかったのですし、あなたの気持ちはわかりきっていましたもの」

 そう。誰の目にも、それは明らかだったと思う。

 「でもね、違うんです。
 いいえ、あなたが思っているようには運びませんでした。私の夢の中では。
 あなたは私のその言葉を聞いた途端に、その途端に、逃げ出して、しまわれた。
 くるりと後ろを向いて。
 不機嫌の一歩手前のような、…ああ、そうです、今のあなたのその表情。そんな表情を浮かべて、走って、私から逃げて行ってしまった。
 数秒は信じられなくて、あなたを呼び止めようとしたけれど。だけどあなたはもう振り向かれずに、それはもう真っ直ぐに、走っていくばかりで。そのうちに私はどうしようもなく哀しくなりました。もう二度とあなたとお話しができないと思ったから。
 そうして、私も、自分が行くべき方へ、あなたとは反対の道を、真っ直ぐ走りました。私が帰るべき処へ向かって走りました」

 そこで彼女は一息ついた。

 「私の帰るべき処」

 何を言いたいのか痛いほど伝わってくる。この人がいつも、決して口には出さなかったけれど、心ではいつも想い続けていたあの街のことなのだ。
 結局、二年間の空白を置いてさえも、あの街に置かれたこの人の心を連れ戻し、手にすることはできなかった。

 痛かった。
 この人の身体を失う前に、既に自分は心すらも所有してはいなかった。

 別れ際にふとその人が言った。

 「けれど私、あなたに初めてお逢いした時から、幾度も思いましたわ。
 もっと早くあなたと逢っていれば良かったと」

 もっと早く。多分、彼女が彼に出逢う前に。

   *

 四月一日 R

 彼はやはり、ほんの一瞬ではあったけれど、そこに現れた。
 あの瞳で私を見つめた。
 いつもそれに撃たれる。私を心の奥まで深く貫く。
 そのたびに私はまた唇を噛みしめて、溜息をつかざるを得ないのだ。
 あまり鋭くて、けれど優しくて。

   *

 桜の花が散る頃に、黒い枠のついた葉書を受け取った。

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