ねこ
すべての出来事なんてものは偶然の産物ですよ。
ねえ、そうでしょう。
縁側で寝ていた猫が急に頭を持ち上げてそう言った。ぐるぐると喉を鳴らすような音をたてて、なんとも聞き取りにくい声ではあるが。
ほう、この猫は話ができたのか。
そう驚いたあと、さらにもう一度驚いた。
猫が口をきく。当たり前のことだった。
猫は話し続ける。
だいたいあなた、先ほどから拝見していれば、過ぎたことをいつまでもぐずぐずと。後悔先に立たずと言いますでしょう。若い方がそんな後ろ向きでどうするのです。未来のある若者が、過去に縛られていてはいけません。前向きになりなさい。忘れてしまうのですよ、
それに関することをすべて。
偉そうに目を細めて、言うことが現実的すぎて気に入らぬ。
それにしても説教好きの猫とは知らなかった。
縁が無かったなんて仰ってるようですが、そんなのはまやかしですよ。
己の臆病さを認めるのが厭なだけではないですか。縁だなんて、そんな正体不明、実体の無いもののせいにしなくても、出逢うべき人にあなたは出逢い、そうでない人には出逢わない。これは偶然の産物です。
言うことが矛盾してはいないか。
いいえ、これが正しいのです。あなたがここに生きているのは偶然の積み重ねだ。あなたがあの日あの時刻にあの場所にいたのも、言ってしまえば偶然なのですよ。あなたはあの事を何か運命づいたものとして見たいらしい、だからあれは必然だったと言いたいのでしょう。
ふん、あなたが求めているものは何かしらの結びつきだけですな。縁が無い縁が無いと言うのも、「縁が無い」という関係が欲しいからなのでしょう?
そんなことはない。
けれど、そうなのだろうか。
私は、そんな希薄な関係でも満足できるほど、あの時、追いつめられていたのだろうか。
追いつめられていた、なんてものじゃないですよ。ああ、どうしておわかりにならないのでしょうね。…私はね、いいですか、あなたを心配しているのですよ。あなたは御病気なのです。それを自覚していない、いや、間違った自覚をしている。
いつまでそこにいるつもりなのですか。そこは、あなたのいるべき場所ではないでしょう。そのことはもう、御存知なのでしょう?
一度でも幸せだったことがありましたか。その場所で、その方といて、一度でも。
幸せとは…
ああ、それですか。あなたがいつまでもここに戻らないのは、それが解けないから、ですか。
もう三年以上、あなたは境をさまよっておられる。
どちらにも落ちつこうとはなさらず、慕って来る蝶を握りつぶし、己の顔に泥をこすりつけ、傷をつけ、そうして、清いものを畏れておられる。
清いもの。
必然など、この世には存在しませんよ。だから、もう自分を責めるのを止したらどうです。何もかも偶然、うまくいかなかった事もすべて偶然のせいです。傷ついたのも偶然。
あの方が偶然あの時あの賭を選び、あなたは偶然その結果を選んだのです。数ある結果の中から、偶然最悪のものが選ばれてしまっただけなのです。それを、縁だなんだと理由をつけて、結果がそれしかなかったように思うのは愚かしい。あなたのせいではないのです。
…おや、泣いておられる。
泣いてなど、
本当は、そこにいたいのでしょう。自制するのは、お辛いでしょう。
若い方が、耐えて待つなんてのは、流行りませんよ。さあ、もう三年です。まだお顔もお忘れになられず、そうやってお泣きになられるのでは、仕方がありませんね。
まあ、あなた方にとっては、まだ三年、ですか。
あれからもう三年も。もう思い出す気力も失せた。
決して楽しい記憶ではないが。
では、その記憶をなくしてしまったら、いいのですか。
その方が、いいのですか?あの方のことを忘れてしまえば、楽になるのですか。
あなたのしたいことは違うはずだ。
一つ問うてもよいか、猫。
何故あの方はあの時、あのようなことを私にされた。
猫は大きく瞳を見開いた。
思い出しているのだ。私の心を見透かしているのだ。あの方の心を、切り開いているのだ。
あの琥珀のような瞳で、何もかも、何もかも。
ああ…あの、そうでしたか、あれが。
前足で顔を洗う。
あの方はね、恐れていらしたのですよ。否、不安だったのです。
不安。
それは違う、あの方は、そのようなものに捕らわれ得ない。
それは私だ。いつもいつも不安に捕らわれていた。
何故?
失うのが恐ろしかった。
私はあの方に不釣り合いだと思っていた。
あの方は美しすぎた。
いつもいつも、嫌われないように、呆れられないように、気を遣ってばかり。そんな自分が厭だった。媚びていた。けれどあの方を失うのが恐ろしかった。
そして同時に、いつでも失う覚悟はできていた。
だからこそ、非難もせずに。
仕方のないことだと思ったのだ。
私では役不足なのだと。いつか起こり得ることなのだと。あのように隠す努力もなさらなかったのは、私を邪魔に思っていらしたからなのだ、と。
あの方を非難するなど、どうしてできたろう。
それよりも、もっと早くに気がつけなかった自分の愚かしさを恥じた。
猫は背中を震わせた。
あの時のあの方のようだ。
肩甲骨の隆起。
浮かび上がる滴。
両腕に刻み込まれた飛翔。高潔。翠。
その扉を開けてはいけない。その扉を開けてはだめだ。 その向こうには、あの方が。
私に背を向けられて、腕の中には、胸の下には、肩越しには、
体中の血管を取り出され、それを一つずつメスで裂いていかれるような、じわじわと訪れた破壊感。皮膚がまるで濾紙のように、体内から血を吸い出していくかのごとき嫌悪感。
私はあの時、扉を開けた。
微かな希望にすがりつき、間違いなのだと、ただ自分の予想が裏切られることだけを期待し、安っぽい扉に手をかけたのだった。
頭と心は別のものなのだと、その時初めて、私は理解した。
聞いておられますか。
猫が言う。
あなたは非難をするべきだったのです。いえ、仮定形過去はやめましょう。
あの方は、あなたからの非難を待っておられたのですよ。
あなた方は、お互いを他の誰よりも何よりも、自分自身より大事に思っていたにも関わらず、信頼、ということはなさらなかった。
信頼。
そう。信頼です。過信すべきだったのです。
あの方が欲していたものをお教えしましょうか。あなたがあの時選ばれたのは、沈黙、肯定、そして逃亡。
あの方が欲しておられたのは、非難、否定、追求ですよ。わかりますか。
わからぬ。
泣き叫び、激昂し、掴み、殴り、責め立てる。
そういうことをされるのと、何も言わずに立ち去られるのでは、どちらが…
そんな。
そんなものを欲していたはずがない。
あの人が私に示したかったものが、そんなものであったわけがないのだ。
それではまるで、それではあの人が、あの人が。
猫は静かに瞳を閉じた。
泣きたくても、もう涙は出なかった。
遅すぎましたか。まあ、三年もたってしまえばね。
やり直しはききませんよ。残酷なものですね。
あなた方は、始めから言葉を捨てておられたでしょう。言葉というものは、あればいいというものではありませんが、無ければないでそれもまた厄介だ。
ただ一言で良かったのです。まだあなたがきつくしまい込んでおられる、そう、それです。捨てようがないのでしょう。いいえ、駄目ですよ、一生抱えていかなければ。
あなたはただ一度の機会を逃がしたのです。
あの人はあなたの為に、大きな賭に出られました。けれどあなたは、振られた賽の目を見もせずに持ち札を全て捨ててしまった。
あれは、ただ一度の賭でした。ええ、本当にね。
そこで猫は目を細め、
それより、優しい方々は今、周りにいらっしゃるでしょう。
その方達を大切になさい。何があなたに必要なのか、気付かせてくださいますでしょう。
高い所で風が吹いたようだ。
すでに色づいていた庭の山毛欅の葉が容易く枝を離れ、まるで雪のように、ばらばらと周囲に散った。
冬が来る。
雪が。
一度も脳裏を離れない情景。
白い白い肌。細く長い、光の色をした髪。
何故にそのようなことをなされました。
それでも側にいられさえすれば。
なぜ私にぶつけてくださらなかった。
ころしてさしあげたい。
それは誰です。
だれ。
無駄ですよ。遅すぎました。
猫がするりと庭へ降りた。
| 2000 / オハナシ |