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ちぎり

 のばし続けた髪を切ろう、今こそ。

 そう思ったのは自分の背後を振り返った時だった。
 どこか遠くから叫んだ声が風に乗って微かに、それともすぐ真後ろでとても細い声でささやかれた、自分の名前を明瞭に聞いた気がした。
 そうして気がついた。
 今までずっと気がつかなかった、自分の頭からずるずるとのびた髪に。
 ひどい状態だった。
 髪は先端が見えなかった。埃まみれの路上をだらだらと延びていた。その髪自体が、まるで私の歩いた軌跡のようだった。
 いつから延ばしていたのだか覚えていない。
 最後に切ったのはいつだか覚えていない。
 土と埃にまみれて汚らしいったらない。
 だから切ってしまおうと思った。
 その方がいいと思った。
 わけがわからないままに延ばし続けても、ぱさぱさと乾いてゆくだけ。
 早く切ってしまおうと思った。

 その方がいいと思った。

 思いついたらば早いほうが良い、そう思って掴んだ自分の髪は、信じられないほどに褪せていた。光をうけても、つやりともしなかった。
 ああ、昔はこんなではなかったな。
 髪を掌にのせたまま呟いたらば、記憶が髪づたいに甦った。

 気がついたらば、髪はあの時、ざらんと頭に生えていた。
 一瞬にして、肩の長さで頭にあった。
 それまで軽かった頭が突然地面に引かれたようで、少しの苦痛も感じたけれど、顔の周囲ではねる髪の毛に見とれて過ごした。楽しく過ごした。無我夢中だった。
 少なくともそのような気でいた。
 腰の長さまで髪が伸びると、頭の重さに慣れてきた。自分の髪が誇らしかった。髪の手入れも怠らなかった。こんなに長い髪はあるものじゃない。どうせなら誰よりも長くなればよい。
 伸び続けていく髪を眺めて、少し悲惨めいたものを感じた。けれどまだ幸せだった。
 少なくともそのような気でいた。

 背丈と同じほどの長さになったとき、初めて髪をうとましく感じた。何度か足を取られそうになって、なぜこの髪はこんなふうに伸び続けるの、かと腹立たしく思ったりもした。
 髪が自分の中から生まれてくることなど、自分の育て続けている髪だということなど、忘れ去っていた。
 何度か転んだ。
 そのたびに痛んだ。
 もう厭、もう厭だ、なんでこんな髪がくっついているのだろう、
 頭を抱えてうずくまって泣いた。
 自分の髪を呪った。
 少なくとも、幸せなフリはしなかった。

 いつまでも泣いていたって仕方がないので、私はやがて立ち上がってまた歩き始めたけれど、その間にも髪はどろどろと育ち続けて、先端は遙か彼方に取り残された。髪はいくらか成長を遅くして、ひそやかにけれど休み無く、延び続けた。
 軽やかに走る恋人たちに何度追い越されたか知れない。
 一緒に並んで歩いた人も、次第に私の歩みの遅さに焦れて、振り返りながらも先に行ってしまった。
 私はいつか孤独に慣れてしまって、もう誰を呼び止めようという気もしなかった。
 髪は休まない。
 普段は気にもとめなくとも、手にとって眺めていると、やはりそれは黙してするすると伸びていた。
 少なくとも、以前のようにたなびくほどの勢いはなかった。

 誰かが私の髪を遙か後ろで踏みつけたのか、それとも髪が自ずから何物かにからまったのか、だんだん頭が重くなり進めなくなり、髪の伸びた分しか私は動けないようになって、

 そうだ、髪を切ろう

 と、そう決めた。

 決めたらば早いほうが良い、今までにも何度かそう思わなかったわけではない、けれどもそのうち、もう少し後、もう少し、そう先延ばしにしているうちにいつも決心は鈍り伸び続ける髪を放置して、今ではろくに自由もきかないようになってしまった。

 切るのならば今しか。

 その為の刃も鋏も無いけれども。

 刃を持たないのは他人のせいではなかった。
 誰も己の為の刃など、与えられてはいなかった。
 他人の為の刃を与えられていた。
 幾度か手渡された、これで貴女の髪を切りなさいと言われた、私の刃をお使いなさい、そう示された。供された。
 その刃を、私は捨ててきた。
 切ることができなかった。

 誰も、私に刃を供さなくなった。
 私は髪を切る手段を自ずから失った。

 それでもやはり、切るのならば今しか。

 その為の刃も鋏も無いのでしょうがなく、一本一本、髪をひきちぎっていった。
 その度に、ちぎれた髪からは血が滴った。
 はたはた、つらつらと流れて、地を叩き、指を濡らし、足を染めた。

 私はもうその場に座り込んで、髪をちぎることに夢中になって、他のことなど目に入らない。誰の気配も耳に入らない。

 私を中心に、血の円はまるく広がってゆく。
 ちぎれた髪が、血の中を泳ぐ。
 取り巻くように、私の周囲に広がってゆく。

 逃げ場の失われてゆくことに、私は少しも気づいていない。

[2004/4/2 (Fri)]

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