2003 / オハナシ | トップページへ戻る

天井に敷布 胎内に梅花

  貴方がいない間、私はずいぶん暇なのです。

 だから何か与えてくださらないか、一人で待っているのはずいぶん暇なので、と、男に言った。
 私の言葉で珍しく男は立ち止まった。
 いつも背中だけ見せてすたすたと行ってしまう男が、珍しく立ち止まった。

  何かいけないことを言っただろうか。

 と、びくり、ぎくりと震える私を振り向いて、男は少し考え込んだ。見下ろすような視線が、まるで侮蔑のそれと紙一重。
 軽薄を表情にしたらきっとこんなだ。この嗤い顔を見たらば誰だってそう思う。
 日頃から私がそう定義づけている、いつもの顔でけらりと嗤って、男が部屋の隅の箪笥を示した。

  暇ならば、暇ならば。
  あの上から二段目の中身で、遊んでいると良いでしょう。

 何故に、上から二段目を指定するのです。
 問うと男は、顔を歪めた。

  其処が貴女の、いずれ、はいられる場所だから。

 そのように宣告をして、部屋を出た。
 そうか。私はここに留まれるのか。
 男の真意を知って少し落ち着く。

 うきうきとしながら、部屋の隅にある和箪笥を開けた。

 さぞやすんなり引き出せるのであろうと思いきや、段は意外と重かった。右に左にがたがたと揺らして、下段の面に足踏ん張って、ようやく半分ほど引き出した。
 これじゃ到底、私の入る場所なぞありゃしない。
 あの莫迦。ほんとうに莫迦。
 私が入る時の為、少し余計なものを捨ててもよいかしら。よいわよね。私が此処に入るとあの人は言った。私にこの段をくれるということだわね。それならこの中身はすべて私のもの、少しくらい捨てておいてもよいはずだ。

 そう、決めた。

 ぎゅうぎゅうに詰まっているところを、少し指でほじくり返す。
 何やらわらわらと出てきたのは、たくさんの、たくさんの梅のつぼみ。ころころと足元に転がり落ちて、もう既に乾いてかさかさになっていたので、床にあたる先から砕けた。

  まだ咲きもしないものをこのように摘んできて。
  ほんとうに非道い人。

 思いながらも、両手でかき集めて、ふっと吹いて窓から捨てた。
 箪笥へ戻る。掘り返したところに指を突っ込んで奥のほうを探ってみると、次に爪の先にひっかかったのは、細い細い銀の鎖だった。何かトップがついているかと引っ張りだすが、鎖ばかりが、ちりちりと出てきた。
 ずいぶんと、長い。
 引っ張れば引っ張るほどに、さらさらといくらでも尽きることはなく、まるでひとすじの瀧落ちのように、床を目指して流れてゆく。
 もしかして、奥の方は全部この鎖?
 そんな疑問も浮上するほど、鎖はまるで別の空間から送り込まれるように、しゅるしゅるともつれながらも途切れなかった。少し疲れて手を休めると、唐突に窓の外から西日が差し込んで、部屋を異常に紅く覗き込む。鎖にそれが正面から反射して、なんだかまるで、

  血が、流れ出しているようだ。
  血が流れ出して、床に溜まっているようだ。

 そんな錯覚を。
 それ以上ひいちゃいけない。
 そう直感的に感じながら、引っ込みがつかなくてやっぱり鎖を、もう少しだけ引っ張り出すと、ぎゅうぎゅうに詰まった中身の、わらわらと掘り返された間から、ぬっと女の腕が覗いた。鎖が幾重にもからみついて、まるで飾り込んだ夜会の女のように、きらきら光る蒼白い腕が、おもむろに、覗いた。
 私は飛び上がるほど驚いて、鎖も腕も、見えないようにもう一度、奥のほうに押し込んだ。

 厭だ、吃驚した。
 せめて言っておいてくれたら良かったのに、女の腕が入っているから、気をつけて、とか何とか。
 急に現れるから、吃驚した。
 ばくばくと鳴る心臓のあたり、左手で押さえながら今度は別のところを掘り返す。
 少しの砂利に混じって出てきたのは、何枚もの脱ぎ捨てた皮と、

  …あの人。脱皮をしていたのね。

 血が飛んだような茶色い染みのあるカーテン、そして、触れると妙になまあたたかい、襟のところの黄ばんだ帷子。よくこんな物、後生大事にとっておいたものだ、そう感心したくなるほどに気持ちの悪いものばかり、だった。
 かと言って、捨ててしまうのは躊躇われる。
 不気味でおぞましい物の裏には、何かしら特別な理由が、いつも眠っているような気になったから。
 それに私、その時は脱皮の事実に集中していて、とてもそこまで気が回らなかった。

 そのうち夜中になって、男が滑り込むように帰宅した。
 いつもいつも扉を30度ほど開けて、隙間から平たく部屋に入る。一度訊いたことがある、何故大きく開けてしまわないのです?と。
 別に面白い答えを欲したわけでもないけれど、まるで嘘が返ることを期待しているような、そのような私に見えたらしい、男には。
 蔑むように鼻で笑って、だって貴女が外から見えたら困るでしょう、と、囁いた。

 私が箪笥に入ったら、この人、扉を開け放つようになるかしら。

  それはさておき貴方は脱皮を為さるのですね。
  何とも素敵な才能ですね。
  一度拝見願いたいもの。

 実にくだらない、というふうに男は首を傾げて、貴女が来てからもう二度もしましたよ、と言い、口調を真似て、

  それはさておき貴女は今日も退屈しましたか。
  箪笥は貴女の暇を潰すに役立ちましたか。
  明日はこれを、天井に。

 そう言うと、白い大きな敷布を渡した。
 これを天井に、どうするのです。重ねて問うと、またもや馬鹿にしたように私のことを睨み直して、

  これで天井を覆うのです。

 と、告げた。
 何の変哲もない白い布、これで天井を覆うと、何か面白いことがあるかしら。不思議な気持ちで布をたたんでから、押入を開けて布団を敷いた。

 その夜は奇妙な夢を見た。
 たたんで箪笥の横に置いたはずの、例の白い敷布の上で私が寝ていると、天井からぼろぼろと何か小さなものが、次から次へと落ちてくる。小さなものは私にあたると、そのまましゅわっと溶けてゆく。身体中を瞬間に、新しい皮膚が覆うかのように。隣に寝ていたはずの男はかさかさの抜け殻に変わってしまい、部屋の隅では箪笥がガタガタと鳴り、引き出しからは白い女の腕がぬぅっと覗く。その腕が、鎖をさらさら絡ませたまま、来い来いと言わんばかりに招くので、私は無性に怖ろしくなって、はっと、天井を仰いだ瞬間に、見えたのだ。木目の節々から私のことを見下ろしている、たくさんの眸。ぼやけて滲んでゆらゆらと揺れて、その眸が瞬きをするごとに、また新しく小さなものが、やけに分厚い瞼の内から、身体の上に落ちてくる。
 ああ、これなのか。
 これが厭で、あの人は、敷布で天井を覆えと、そう言ったのだ。

 悟ったところで目が覚めて、隣には中身の詰まった男が寝ていて、天井はいつもと変わらぬ漆喰だった。
 そう言えば、この天井は漆喰だった。覗かれそうな節穴も、眸と見間違いそうな木目の模様も、在るはずはない。ただ埃に薄汚れた、漆喰ばかり。
 どことなく苦いような口腔を水道の水ですすいで流しに吐いて、眠り直すとまた同じ夢をみた。

 六度目に私が目を覚ました時、男は西側の窓枠に腰掛けて、もう傾きかけた太陽を背負い、じっと私の様を見ていた。

  貴女も見たでしょう、あの眸の群れを。
  随分とうなされていましたね。おかげでこちらは眠れなかった。
  あの眸、

 それを私が遮って

  あの眸、あれは誰です。
  ぼろぼろと落ちてくるもの、あれは何です。
  あの腕は、箪笥の中の、あの腕は、誰のものなのです。

 いつもまともな答えをくれたことがないけれど、その時も。
 これより莫迦な生き物を見たことがない、と言いたげに高い所から私を見下ろして、たまには自分で探しなさい、

  知る必要があるのなら。

 言って、眸をすっと細めた。
 私は追究を諦めて、ぺたりと床に座り直すと、件の敷布を手に取って、顎の角度をぐっと持ち上げ、男に向かってきっちり糺した。

  貴方はあれを、見たくない。そうですね。
  貴方はあれを、隠したい。そうなのですね。
  貴方はいっそ、できることなら、忘れてしまいたい、それだから。
  それだか、ら

 正面から顔を見据えられ、男も中途半端な笑顔をやめた。
 いちいちの質問には答えずに、

  貴女が覆ってくれますね。

 たぶん初めて、うつむきがちに、上目遣いに、困ったように、私に言った。
 私がきっと、覆いましょう。
 無性に彼がいじらしくなり、きっときっと、覆います、私が必ず、覆います、繰り返すうちに泣いていた。私がぐずぐず泣いているうち、男はいつもの横柄な態度を取り戻し、からりと嗤って上着を脱いだ。
 男の立った後の窓枠に西日がぎらぎら反射して、涙に濡れた自分の両手は、まるで血濡れた如く紅く光った。

 男が出かけて行ってから、私は一人で敷布を広げた。昨夜見た時はそれほど大きく感じなかったが、広げてみると天井を覆うには充分で、四隅の柱のてっぺんに釘でがんがん打ち込んで、垂れ下がり気味に敷布が覆った。
 天井が低くなったようで、息苦しい。
 でもこれでもう妙な夢を見なくて済むだろうか、私も。あの人も。
 安堵といかないまでも、やっと一息つけたような、心地がした。狭苦しくなった部屋の中で。

 早く帰って、私のことを褒めてほしい。
 心弾ませて待っていたのに、男は夜中になっても戻らなかった。

 いつの間にか眠ってしまったようだった。身体の上のほうからは、ばらばらと雨でも降っているような音がして、部屋全体は、何やらぼんやりと薄ら明るい。

  もう、朝ですか

 誰にともなくそう言って、光に慣れない眸をひらくと、昨夜とまるでおんなじふうに、男が西側の窓枠に腰掛けて、私のことをじっと見ていた。
 陽は昇り始めたようだったけれど、西の空はまだ群青が濃い。男の顔がゆらゆら滲んで見えるのは、部屋の空気が蠢いているからだ。
 気が付くと部屋中に、花の丸い蕾が散らばっていた。

  やだこれ梅だわ。箪笥に入っていたのと同じ。

 けれどもこれは、あれよりも若い。
 ころころ、ふてふてと、それは私が吊した敷布のたるんだ端から、次から次へと溢れ出てくるのだった。

 これも夢。

 惑った途端に男が、今日も、嗤う。
 からから、枯れ木を鳴らすような音で嗤った男は、可笑しそうに肩震わせて私に言った。

  役に立ちやしませんでした、結局は。
  寧ろますますひどくなった。
  貴女がせっかく、無理をして、くれたのに。

 別に無理なんて。
 無理なんてした覚えはなかったので、それは少し変な言い方、だと思ったけれど。テーブルを引っ張ってきて、その上に乗って、少し背伸びをしただけだった。少し脇腹が攣るような感じはしたけれど、別に無理と言われるほどのことじゃない。

 だけどあの眸。数多の眸は隠れましたね。
 気休めのようにそう言ったらば、男はくしゃりと顔を崩した。
 泣くの?
 かと、思ったほどに、くしゃりと崩れて、次の瞬間、それがその人の私に対する、愚弄の極みであったことを知る。
 嘆息のような嘲笑をひとつついて、けろりとした声で私の気休めをはねのけた。

  そんなものは、在ろうと無かろうと同じこと。
  天井は漆喰なのだから。

 もう男の言うことが、私にはわけがわからない。

  それでは貴方が畏れていたものは、なに。

 問いかけに男はまた嗤う。
 けらけらと、空っ風を転がすような声で嗤って、それからぴたりと、見えない神に戒められたように真面目な顔になってから、

  この部屋中の、梅の夭折。
  毎晩降り積もったこれが、どこに消えたか貴女は知るまい。

 それから幽霊のように音もなく立ち上がり、
 大きく二歩で私に近づいて、
 隣にやっぱり音もなくしゃがみこんで、

 私の丹田のあたりに、ぺたりとぬるい掌をつけた。

  貴女の、体内であのもろもろは結びをなして、花一輪が ひらく のです

 ひぅっ と潮の引くような勢いで、男の身体が半分に透ける。
 眉寄せながら、あの人は言った。

  それは私を滅ぼしましょう

 見たこともない、困ったような顔をつくって、あの人は言う。

  もうお別れです、さようなら
  さようなら

 こうなる事は、わかっていました、いつかこんな日の来る事は、と。
 消え去る姿とともに乾いたその声も、部屋の空気に滔々と融けて。
 丹田のあたりにあてられた、蝋のようにひたひたとぬるい掌も消えてゆき、その名残すらも突き放つように、躰の中で梅花が一輪。

 ぱしん、と弾けるように、ひらいた。

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