現世墨磨り【うつしよすみすり】
サヨナラを言おうという、約束を破ってごめんなさい
現れたかのひとは言いました。
そうかのひとは言いました。
確かにそうでした。
僕は言葉を失いました。
かのひとは僕の真意を知ってただ逃げたのだと、理解していたから。
約束という言葉の裏にあった僕のたくらみを見抜いて、そのトラップをすり抜けたのだと、解していたから。
けれどかのひとは言うのでした。
大地のような深い眸で、かのひとは僕を真っ直ぐに見据えて言うのでした。
僕に謝るのでした。
決して世間一般に美しい人ではなかった。
けれどいつもとてもひたむきだった。自分をわきまえて僕から半歩離れた右側で、必要以上にもたれかからず、寒々しく感じるほどには距離を作らず、僕はその人を、知らずに愛した。
そして今かのひとは言うのです、約束を破ってごめんなさい。サヨナラを言いたかった、そのような貴方の真摯なばかりの、約束を破ってごめんなさい。
そうかのひとは言うのです。
そこから僕は迷い始めました。
かのひとをどうしたものかと思いました、それまでは、かのひとが目の前に現れるまでは思いは一つだったのに、だったというのに。
貴方の決心から逃げ出してごめんなさい
そうかのひとは言ったのでした。
僕は確かに一年前に、そう言ってかのひとを呼び出しました。サヨナラを言いたい。僕はサヨナラを言いたかったのでした。
そしてかのひとは、来ませんでした。
僕にはその恋は大切でした。
僕はかのひとをつよく愛しました。
かのひとにやがて忘れ去られる、潮のひくように忘れ去られるのは、堪りませんでした。
徐々に他人へ戻る、日の光の下に投げ出された染め布のように、埃臭く色褪せていくのは、堪りませんでした。
そのような過去として、あまりにもありふれた過去として、かのひとの心に残りたくはなかった。僕はあくまでも斬新に、いつまでも鮮烈に、それこそは一生消えない染料のひとしずくとして、かのひとの上に残りたかった。
僕はただひとつありふれていない記憶、というものになりたかったのです。
そこで僕は、サヨナラを言うことに決めたのでした。
西日の鬱陶しく射し込む部屋で決心をして、したらばすぐさま、鈍らないうちにすぐさまかのひとに連絡を取り、サヨナラを言おう、サヨナラを言いたい、愚直なほどにそのままの言葉を、まるで荒々しく叩きつけるように、伝えてしまった。
それは怒りのエネルギーではありませんでしたが、かのひとにはそうでないことは言わずとも伝わっていたようで、そうでした僕らは、いつだってそうでした、曲がりくねった心の如何なることも、説明を必要とせずに、分かり合いました。
かのひとはまるで母親のように落ち着いて、参ります、そう一言だけ、はっきりと言いました。
参ります。
僕には何とも頼もしく聞こえたその一言でした。
かのひとは、僕の凄絶な決心を、しっかりその心で身でもって受け止めてくれるという、それは啓示のような一言でした。
僕は姿勢正しく椅子に座って、野の花を一輪挿したテーブルの上で手を握りしめて、待ちました。
西日は伺うようにどんどん深く覗き込みました。
やがて暮れ方の空には宵闇が乗り出しました。
かのひとは来ませんでした。
僕はかのひとが、決心の裏側にある僕のたくらみを見抜いたのだと理解しました。
それは仕方のないことであると思い、かのひとにも護る権利のあることを思って、僕は握りしめていた指を、暁の日のしらじらとのぼる頃、ようやく引き離すようにしてほどいたのでした。
僕はその時いちど、諦めたのです。
けれどそれから冬が来て名ばかりの春が巡り夏が通り過ぎ、僕の上にまたかさかさの乾涸らびた葉が降りる頃、かのひとは現れて、
約束を破ってごめんなさい
それは何の釈明もなくただひたすらの再会でした。
その言葉を聞いてそこから僕は迷い始めました。
かのひとは何だか嬉しげに、深い大地の色の眸をくらくらと細めながら言うのです。
約束を破ったことはごめんなさい、けれど
けれど、怖ろしかったと、かのひとは言いました。
貴方のことが怖ろしくなったと、かのひとは言いました。
僕が突然かのひとを呼び出そうとしたその夕方、かのひとは同じように西日の射し込む部屋に座って、ひとり何をするでもなく文机を指で叩くうち、目の前の硯の緩やかな坂に溜まった墨の面に、不思議な白昼夢を見たのだと言いました。
廊下の柱の電話機が、突然鳴って
電話が鳴って、僕からの急な呼び出しに応じると、僕はかのひとにサヨナラを言うのだそうです。かのひとが驚いて目を円くしていると、僕はまるで
押し花でもするように、かんたんに、
かのひとの頸を掴んで、きりきりと絞めて、せき止められて頭に溜まった血が、すべて涙になっていちどきにあふれ出すような衝撃と共に、鼓動も急き立てるようにどくどくと打ち、はっと気がつくと、相変わらず西日の射し込む部屋で、かのひとは文机の前に座っていたそうですが、そこに僕から、くだんの電話があって、
サヨナラを仰りたいなどと、聴いたものですから
参ります、とは答えたものの、未来でも垣間見たような気持ちになって、先ほどの夢のなかで頸にまわされた僕の指の感触なども生々しすぎるほどに残っていたそうで、かのひとはついに、僕を訪ねることができなかったそう。
正直、僕は驚きました。
曲がりくねった心のことも、口に出さずとも自ずから伝わった僕とかのひとではありましたが、同じように西日に覗き込まれた離れた部屋で、思い描いたことすら互いに分かり合っていたとは。
僕はそれを聴いて一層、かのひとを色褪せるように失いたくはないと、一年を経てなおさら強く心に感じ、そして貴女はなぜ今また僕の前に現れたのです、歓びに震える声でそう問えば、
サヨナラなどと仰るから怖ろしくなってしまいましたけれども、わたくしは、
わたくしは貴方と魂で重なり合うのだと、気がついたのです、決してお別れではないのだと、気がついたのです、わたくしは貴方から離れてひととせ、生きた心地がいたしませんでした、わたくしは、貴方のわたくしを想ってくださるのと同じほど、いいえ、ますます強く、貴方のことを想わない日はありませぬ、それならばいっそ、
それならばいっそのこと
かのひとは言って、かのひとは嗤った。
かのひとは覚悟ができたと、かのひとは嗤って。
ああ、聴いてください。
ああ、信じてください、僕のその刹那、どれほどか仕合わせであったこと。僕らはその時、心の隅の隅までたがいなく、ぴたりと重なり合ったのだと、僕は今でも信じています。魂が確かに互いを求めて重なり合ったのだと、僕は今でも信じているのです。
かのひとは覚悟ができたと、ひんやりと笑み浮かべて。
それから僕は、かのひとの握りしめていた墨も乾いていない硯で、額を重く深く殴られて、
まるで恋しいひとへの文でも綴るような苦しいような、それでいて胸躍るような
不思議な心持ちでもって、かのひとの笑みの浮かぶ顔の右頬に、返り血の一滴飛んだのを気にかけて、それから僕は、息絶えたのです。
かのひとは僕の身体を庭の池にするりと沈めて、毎朝池の端から花を摘み、それを古書に挟んでは押し花をつくり、紙のようにかたく薄くなったものを眺めています。
時々はあの硯で墨をすり、僕に手紙を書いてもくれますが、硯からは必ず赤黒い色が染み出して、決して漆黒の文字とはならないのでした。
[2004/11/11 (Thu)]
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