妄想常用癖
それは、この底にあるのだろう。
この、紅く染まってしまった水の、ずうっと、ずうっと下の方に。
今でも透いているのだろうか。それとも、朱に染まってしまわれたのか。
ああ、あれはもう遠い昔のこと。まだ水は清く澄んでいて、そこにさくらは咲いていた。
私はいつもそれを眺めていた。一度、手にしたことのあるそれを。
母の腕に包まれたような優しい安堵感。絶対の保護を無償に約束してくれるもの。
そして、けれど私の喉を掻き切った、つめたい光を放つ刃物を。
まだあそこには戻れぬ。
もしかしたら、もう二度と。
いいえ、そのようなことは。
*
四月も半ばだというのに、また雪が降っていた。
遅い夕闇の薄蒼のなかを、白いものが舞いおちていく様子は、不思議なものだ。綿くずというよりは紙の切れ端。右に流れ左に流れ、ひらひらと降りて水面に触れる。
耐えてくれるだろうか、白いままで。染まらずにいては、くれぬだろうか。
けれどその想いもむなしく、それは汚れた水にするりと融けてゆく。
おなじこと。
何片の犠牲を、先刻から息を詰めて見守っていることか。
まだあそこには戻れぬ。
雪が必要なのだ。濁った水に染まらない雪が。
まだまだ、季節を待たねばならぬ。
指を折って数えてみれば、百と八十三日。
百八十三日間、私はここに座りっぱなしだ。私の中から、何かがどんどん流れ出して行くのを、止めることもできずに。
あの秋の日、あの人は私をここに据えられ、儚く微笑んで、またお逢いしましょう、そう囁かれた。
空気はとても柔らかく暖かく、枝から離れ干からびた葉は、吹き上がり、舞い上げられて足下に砕けた。
あの時の私は知っていたのか。
あの方は優しい目をして、うっすらと笑っておられた。その尊い横顔を見上げた時、愚かな私は、ああ、これで何もかもがうまくいくのだ、そう錯覚し、決めてしまった。
待っていようと。
幾つの季節をも犠牲に、ここで待っていよう。美しい泉のわきに、のんびりと腰をおろし、ただゆるゆると、冬を経て、夏を経て。
そうしてあの人はそれを取り出した。
それは何なのです。
幼い私の問いかけに、また穏やかなお顔をされて、
私の瞳です。
そう答えられた。
薄い翠色のそれは、たしかにあの方の瞳であろう。
それを波も立てずに、ぽとりと泉に沈められ、そうして言葉を続けられた。
また お逢いいたしましょう ね?
身体の頂点に針を刺されたようだった。
あの方が私に課せられたのは、約束ごとではなく、呪縛であった。
けれど無垢で無知だった私には、その言葉の意味もわからず、ただその美しいものを上から眺め、ほうと溜息をつくのみだったのだ。
愚かしいこと。
あの方が水の底に沈めたそれを、私はいつも眺めていた。昼も夜も、ただその美しさに見とれ、あれが手に入りはしないものか、そんなことを思い。
わかっていたのだ。一度、私はあれを所有していた。あの方が私に手渡された。けれどもう遠い遠い昔のこと。数え切れぬ程遠い昔。
まださくらは咲いていた。
二度とあそこには戻れまい。
私が、捨ててしまったのだ。
失くしてしまったのではない。捨ててしまったのだ。
あのように美しいものを持つことに耐えられず、そうしてそれをあの方にお返しし、受け取られようとなされないものを無理に押しつけ、遠い異国を私は去った。
もう二度とここには戻るまい。
もう二度と、あの方には、お逢いいたすまい。
冷たいものが私の中から溢れ出た。
*
それから、私はここに辿りついたようだ。
小さな泉の横の、静かな、厭な場所だった。けれど他に行く場所も無く、引き返そうかと振り向いた時、私の後ろには何も無かった。
途方に暮れて、倒れ伏し、私はそこで命尽きた。何時の間にやら時が経ち、幾人かの方々が私の中を通り過ぎて行かれ、ある方など私の胸を深く深くえぐり、ある方は舌を噛みきり己を犠牲になされ、ある方は私をお試しに、ある方は勘違い。
そうして、何度も使われた濾紙のように、私にはその方達の汚い部分だけが溜まっていったのだ。いつか、唯一呼吸を続けていた身体すら、吹く風にぼろぼろと崩れていった折りだった。
あの方が立っていた。
怯え、逃げれば良かったのかもしれぬ。あの方に頂いたものを、清く尊いそれすら、守り通すことを恐れた私が。己が汚れていたがため、恐ろしく、逃げだしただけの私が。あの方は、私を怒っていらして当然なのだ。それなのに、
ああ、嬉しや。
それが、私がその時感じることのできた、すべてであった。
それから後のことは夢うつつである。あの人は私を起きあがらせ、ふうっと息を吹き込まれた。私にはものを考える余裕が無く、ただ嬉しく、そして再び、生きたのだ。
あの方がそれを取り出す。
翠。射すくめる瞳の色。
それを目の前の泉に沈められ、
またお逢いいたしましょう
そう微笑まれた唇は、この世のものとは思われなかった。
あの時の私は知っていたのか。
わかっていたのか。あれが、
あれが最後なのだと。
*
よく雪が降る。雪が降るときの空の色は独特だ。雲の厚さが十倍は違う。そんなことを思い、水面に雪が積もることを畏れた。
何時のことだったか、水が濁り始めたのは。水が濁り、その度、それは薄れぼやけていった。
それも遠い昔のこと。その日も私は水の中を覗き込み、あの人を待っていた。
遥か昔にみた、古い夢を思い出しかける。あれがこの手の中にあった昔。幼かった己の姿が水中をよぎる。
その私の前に立っているのは誰だ。
濡れたような髪の、背の高い、あれは、あれはあの人だ。
私にそれを下さった時の、あの方だ。細い顎を少し持ち上げ、私を見おろすような姿勢で、臆病や恥じらいとは無縁の、強い表情をされた。
あの人の唇が、ゆっくりと微笑まれ、その口に、能面のような無機質なものを感じ、どうしようもなく恐ろしくなったとき、それは私の耳元に寄り、息だけの声でゆっくりとささやいた。
マタ オアイシマショウ
ぱしん、と、頭の中で何かが破裂した。
一瞬、視界が紅く染まったかと思うと、水の中の幻影はかき消えた。見つめていた水面に、よろよろと頼りなげに揺れる、深紅の粒が飛び込んでいく。
いけない。
そう思った刹那、それは水面をわずかにゆらして、水に溶けた。
ふわりと紅い色が水中に広がり、薄れ、やがて消えていく。
水が汚れた。
同時に、底から見つめ返す瞳が少し、悲哀を帯びた。
そして、私のなかに黒い穴が空いたのだ。
もうあそこには戻れまい。
あの方は、戻ってきてはくださるまい。
もう二度と。
その日から、血は一滴ずつ、確実に私の瞳孔から流れだし、水を濁らせていったのだ。
あの方は二度、私にそれを託され、私は二度とも、それを失ってしまった。
一度目は私の臆病が、二度目は…。
*
けれど私はまだここで待ち続ける。
汚れた血溜まりを前に、その底にあるもののことを想い、あの方を想い。
翠の中にいつか在ることを。
春だというのに雪が降っている。
雪がひとひら、流した涙の上に落ちる。
染まらずには、いてくれまいか。
しかしその想いもむなしく、それは汚れた水に融けてゆく。
もうあそこには戻れぬ。
あの方は戻るまい。
もう二度と。
| 2000 / オハナシ |