2003 / オハナシ | トップページへ戻る

中洲審判


 真っ白だった。
 すごく悲しくて、悔しくて、憎くて、憎くてそれでも好きで、そんな感情の一太刀一太刀が、非常な勢いで頭の中に突き立って、一瞬何もかもが真っ赤になって、

 そうして、
 真っ白になった。

 もう、いい もういいや、もうなにもかも ばかみたい わたしたち、みんな、あんたたち、みんな ばかみたい ばかみたい あっちでないて、こっちでなかせて、あんたたち、ほんとにばかみたい そんなことばかりくりかえして、しんでいきてまたくりかえして、ないて、ないてないてないて、さけんでないて、つきさしたりかきまわしたり、たのしいのはほんと、すこしだけ それからまたばかみたいにないて、ないて ないて
 でももういいや、わたしもうなくのは、もういいや

 もういいや。

 そう思い、なんだかふぅっと軽くなってしまって、そうして、ぐさぐさ突き立っていた感情が、いっぺんに消えてしまって、真っ白に、なった。

   *

 目の前には紋付き袴の人がいた。三人、地から生えたように座っていた。
 真ん中に大男、その左に老婆、右には少女。さらさら、さらさらと水の流れる音がした。
 
  さて、あんた、どうして殺してしまったのかね。

 頬も瞼も垂れ下がった老婆が、私に訊いた。

  あんた、殺してしまったのかね、
  どうして殺してしまったのかね。

 重い声音で、繰り返し問いた。

  真っ白だったんです

 思わず答える。

  真っ白だったんです、だから。
  (自分でも答えになっていないと思う。だけどしょうがない、他に言いようがない。答えようと必死になって、咄嗟に思い出したのは、それだけだったから。)

 少女はかりかりと筆記を始める。老婆の問いかけと私の答えを書き付ける。
 老婆は同じ言葉を繰り返す。

  あんた、どうして殺してしまったのかね。

 なんだか少しずつ靄が出てきたようだった。さらさらさらさら、相変わらず水の流れる音が聞こえて、足元はもう靄で真っ白くなって(あ、真っ白。そうそう、この感じ。)、向こう側から老婆はゆっくり、決して急かさずに、繰り返すのだ。どうして殺してしまったのかね、あんた、どうして殺してしまったのかね。
 何度も何度も、繰り返すのだ。

  真っ白、だったのです。
  その前は、そう、その前は、真っ赤になって。
  だって、ひどい、ひどい、あの人は、ひどくて。
  元はと言えば、あの人が、私をあんなに欲するような、振りを、したから。だから私は。なのにあの人は。ひどくて、そう、一緒に暮らしている人がいるのだと、そう言った。
  その人を愛しているのだと、そう言った。

 思わず着物の襟元のあたり、拳をぐっと握りしめて、皺がよる。ぐさ、ぐさぐさと、あの時の、憎しみも悔しさも、再び頭に突き刺さるようで、息詰まる。
 かりかりかりかり、少女は休みなく、老婆は表情動かさず、

  それで、殺してしまったのかね。

 殺す? って、私が。
 あの人を?

  あんた、殺してしまったね。

 老婆は、表情をまるで動かさず、こちらを見ているのかもわからないけれど、顔だけは確かに私の方を向いている。

  真っ赤、真っ赤になったのです、頭の中も、眸の中も。
  私、悔しくて。
  悔しかったし、自分がとても恥ずかしかった。侮辱も屈辱も、受けるだけ受けさせられたのだと、この人は、私を高く放り上げておいて、その後は地の下まで続く穴へと突き落としたのだと。自分はただ貶められたのだと、とてもそう感じて、だから。全ては落下の為だけに、私を必要以上に高めておいて、だから。
  真っ赤になってしまった、何もかもが真っ赤に。
  あの人と来たらば、まるでわけのわからないことを言うから、彼女は大切だとか、君も失うのは厭なのだとか、出逢ってしまったから仕方がないとか、こうなってしまったから仕方がないとか、一緒に暮らしている人がいるなんて、あんまりだと思ったの、だから。あの人が、だってあの人が、そもそもあの人の方が、必死になって、私を愛していると言ったから

  だから私は

  ああ、そうだった、私

  私、あのひとが、すきだった。
  あんなことを聴いた後でもやっぱり、ふせた眸のあたり、髪かかる額のあたり、すきだった。
  それなりに、ほんとうに、すきだった。
  だから。

 老婆の、痩せた肩が少し、下がるので、私は彼女が深く息をついたことを知る。
 また同じことを訊かれるだろうか。

  それからどうしたね。
  あんたそれから、どうしたのかね。

 何やら少し優しい声にそれが聞こえたものだから、私は少し悲しくなった。それまで何も感じないままで、ただぽつり、ぽつりと思い出して話をしていただけなのに、それが優しい声に聞こえたものだから、私は少し悲しくなった。
 私、あの人をすきだった。

  それから私は
  そう、口には出さなかったけれど、ほんの一瞬の間だったけれど、頭の中であの人を責めたり詰ったり、泣いたり縋り付いたり、顔も知らない女の人を恨んでみたり、
  いっそのこと一緒に死のうかとも思ったり、
  そういうことを、ほんの一瞬の間だったけれど、頭の中で全部やってみて、口には出さなかったけれども、きっと眸の色がぐるぐる変わっていたのだと思う、あの人は、もうそれ以上何も言わないようになって、きっと言ったらば一緒に死んでくれる、そうもう一度、思ったけれど。

  何だか急に、どうでもよくなった。
  こんな人と一緒に死ぬことも、ないか。と。そうしたらばもう何もかもが自分に関係のないことのような気分になった、感情なんてもうひとかけらも残っていなかった。ものを感じることが、もう面倒だった。

  だからあの人は帰してあげた。
  もう伝えたい何も残っていなかった。
  ただ面倒で、誰かと居るのが面倒で、あの人はもう少し話したいことがあるとか言ったようだったけど、誰か居るとその人が私に反応するでしょう、そうすると私も反応を返さなければいけないでしょう、そういうのがとても面倒で、私は独りになりたかった。

 あのときの、寒々とした気持ち。無気力感、脱力感。
 独りになって、さめざめと泣いた。
 泣いたのだけれど、泣いたのだけれども、あのとき私は確か、名前を呼んだのは確か、

  独りになって、それから、あんた、そこから、あんた、間違え始めたね。
  独りになってから、あんた、状況と感情を、曲げ始めたね。
  あんた、わかっていて、それをしたね。

 老婆が徐に無遠慮に、突然無遠慮になって、ずけずけと言った。
 さらさら、さらさらと流れていた水の音、今は頭の中にがんがん響くように、鼓膜を内側から打ち付けるように、どうどう、どうどうと激しく聞こえる。
 真ん中の大男がほんの少し身体を揺らして、少女は驚いたように顔を上げた。

 独りになってから。
 独りになってからを思い出そうとしたけれど、ぐちゃぐちゃとこんがらがったようで、ぼやぼやと覆われたようで、よく、わからない。

  あんた、すり替えを、やってしまったね。

 老婆はまるで爛々と目を輝かせて、垂れ下がった瞼の奥のほうからぎらぎらと光らせて、私を糾弾しにかかるのだ。

  すり替えって、何ですか。
  すり替えなんて、していない、
  ひとりに、なって、独りになって、私は、なんだかぼうっと腰掛けて、俯いて、両手で顔を覆ってみたらば悲しくなって、いいえ、悲しいというよりももう疲れてしまって、そう、疲れていたから、なんだかぼろぼろと涙が出たのです。それだけです。

 まざまざと、思い出したあの時に呼んだ名前、口の中にじわじわと広がってゆく、あの時に呼んだ名前。あの人の名ではなく、もっと昔から私の中に刺さり続けていた。

  あんた、字面を捨てないでいただけだね、何年も

 そうか?

  あんた、その名前がもう空っぽになっていること、気が付いているね。

 そうか、いや、違う。
 いや、わからない。
 名前が、この名前が。
 いや、そんなはずはない、名前は、この名だけは、空になることはあり得ない。

  あんた、すり替えを、やってしまったね。

 老婆の声はとめどなく響く。休み無く私を攻める。
 何ですか、すり替えって、何なんです。
 貴方達は何なんです。
 ごうごうごうごう、まるで瀧の中にいるように、五月蠅い、五月蠅いのだどうして此処はこんなに、貴方達はどうしてそんなに、私が誰を殺そうと、誰も殺していない、誰も殺していないけれどもし殺したとして、貴方達に私をそんな風に責める理由はないはず、そうじゃないのですか、その名を、
 その名を私から奪わないで、
 その名の意味を私から、奪うのはやめて。

  真っ赤、真っ赤です、
  やめてください、また真っ赤になってしまう、そうしたらもう駄目なんです、すり替えだって何だって、やったと言って満足ならばそれでもういい、私はすり替えを為しました、だからもういいでしょう、だからもう抛っておいて、私を独りにしてください、私は独りになる必要があるのです

 靄のむこうで大男がぐらりと動いて、老婆はハタと口を閉ざして、大男は静かな声で、空気振るわせてやっと鼓膜に届くような静かな声で、けれど耳元で囁かれているかの如く明確に、

  思い出せ

 と、聞こえた。
 思い出せ、思い出さねば此処は通れない。つらくとも、どれほどに酷くとも、思い出せ。改竄せずに感情を記憶を取り戻せ。繰り返せ。振り返れ。為せねば此処は通さない。
 そう、聞こえた。

 するり、するりと、刺さっていたものは一本ずつ抜け落ちて、足元にしゅうしゅうと消えて、さらさら、水の流れる音がした。ああ。向こうのほうに、鳥居が見える。私はまるで、父とでも話すように幼き頃のように喜んで、そちらを指した。
 声、重ねて問う。
 思い出せ。酷くとも。つらくとも。あれをくぐりたければ思い出せ。

 私は、思い出す。
 独りになってからのこと。
 独りになって、さめざめと泣いたこと。

  あの人を帰して独りになってさめざめと泣いて、名前を呼んだ、あそこから、私は確かに状況を曲げた。感情を曲げた。自分を騙し自分を去った男のことを、泣くのはあまりに惨めだったので、自分を騙し自分を去った、憎くて悔しくて悲しくて、けれどまだどうしようもないほどに慕っている男のことで、泣くのがあまりに惨めだったから。
  ほんとうは行って欲しくはなかった、押し出しても強引に、戻ってくれるのではないかと待った。ああ、いっそあんな話を聞かせないでいてくれれば良かった、騙し通してくれるのならそのほうがずっと良かった、そのほうが自分はずっと莫迦でも。
  そんなことを思いながら泣いているのでは自分があまりに惨めだったから、私はあの人を、その時だけでも想うのを、やめた。あの人の名を呼ぶのを止めた。あの人との日々を繰るのを止めた。言われたばかりの諸々の言葉を、頭の中で反芻するのを止めたのです、そうして代わりに、
  (なるほど、すり替え。)
  代わりに、呼んだ名前が、彼の人のもの。
  もうどれだけ長い間、私の中に染み付いたままかわからない。あの曇り空、あの秋の日に、別れてそれきりの、彼の人の名を。
  もう死しか再び逢える手段はないような、そんな錯覚で抱いていた、彼の人の名を、呼んで、いたらば、もうこの世界はあまりにも酷い、酷いことばかりのような気になって、ここを抜け出せば、彼の人に逢える。待って待って待ち続けた人に再び逢える、つらいことも忘れられる、何もかも放り出して、そこへ行ける、
  そう、思って。

 正面から溜息三つ。
 老婆が再び口を開いて、

  それで、あんた、殺してしまったのかね、
  だから、殺してしまったのかね。

 ああ、そうです。
 言われてみればそうでした、私、殺してしまったのです。
 何も見えないけれど、靄以外何もこの眸に映らないけれど、周りをゆるく見回してみて、私は、身体が右と左に裂かれるような、心持ち。左はふわふわ楽になり、軽くなり、生まれたばかりの頃のような、いえもっと、あの人の(誰)腕の(誰の)中で眠るだけ、眠るだけで満足していた頃のような、けれど身体の右側は、天からありとあらゆる槍穂打ち込まれ、がんがん沈み込むような、苦しく重く辛く痛く叫んでも誰にも届かない、誰にも届かない、まるでそのような心持ち。

  ああ、そうなのです
  言われてみればそうでした、私。
  殺してしまったのです。
  ああする以外に、道はいくらでもあったけれど。
  私は泣きたくなかったのです。
  二度と泣きたくなかったのです。
  誰だってそれは同じでしょう、誰だって傷は、厭でしょう。

 正面から溜息三つ、ほうっと切なく吹いてくる。
 とても悲しそうな顔をして、誰だか知らないけれど、とても悲しそうな顔をして、

  逢えたかい。
  居ると信じてここへ来た、目当ての人に、逢えたかい、君は。

 そんなことを、言った。
 ああ、そう言えば。
 そう言えば誰もいない、見渡せば誰もいない。
 子供の頃に見たあんなオンボロの鳥居ばかり向こうのほうに突っ立って、誰もいない、祖父すらもいない、父もいない、伯母もいない、三年前に死んだ従兄弟もいない、彼の人は、当然、いない、いない。いない。
 失望の最中で顔を上げると、目の前に大男が仁王立ち、左に老婆、右には少女。男は錫杖振り上げて、私に向かってひどく叫んだ。
 大莫迦者、とか(非道い)、おととい来い、とか(無茶だ)。

 靄はらいながら振り下ろされた錫杖が首筋にばしんとあたり、

 「痛ぁい!」

 叫んだ自分の声で目が覚めた。
 布団の脇で脈をとっていた医者も、知らせを聞いて駆けつけていた親戚も大いに驚いて、私は自分の首からどくどく血が流れて寝間着を染めてゆくのを見ながら、試みにもう一度叫んでもみる。
 「痛い!」

 医者は案外落ち着いていた。ああ、そんなふうに急に起き上がるから、傷がまた開いてしまいましたね。言いながら私を横臥させ、私が十五時間前に自分で掻き切った傷を処置し直して、

 「こういう場合、普通死にます。」

 化け物を見るような目でそう言った。

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