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道行走行【みちゆきどらいぶ】

 車がのろのろ、夜中の商店街を走るばかりなので私は彼に訊いたのだ。

  どこへ行くのです
  そろそろ帰るのではないですか
  もう夜はこんなに暗いし、ここの通りは苦手なのです

 実際、通りに並ぶ店は気味の悪いものだったし、左側で帽子屋にコソ泥の少年が入っていくと思えば、右側の魚屋では微動だにしない顔でニヤついたままの親爺が、細長い包丁をちゃりちゃり鳴らしながら私達を見送ったのだ。

 ああ、帰りたい早く眠りたい。
 こんな男につきあうのではなかった。

 帽子屋の主人は息子を見ても怒りもしない。あの少年が隣の万屋で小物をくすねたことを知らないのだ。いや、知っているのかもしれない。どうでもよい。

 相変わらず歩いても抜かせる程度の速度で車を進めながら彼が言う、

  真っ直ぐ坂を下れば墓場に出ます
  僕と一緒に貴女は死ぬのです

 なんだ、最初からそのつもりだったから、あんなに優しかったのか、この男。少しガックリするけれど、少し総毛も立つような怖ろしさ。死ぬなんて。
 いや、しかし、

 豆腐屋の水を張った水槽の向こう、白衣の男がかきまわしているものは妙に重そうで、ごつごつと棒がひっかかる。きっと中身はたくさんの猿の手首、猿の足首。みんな何も知らずにあれを買うのだ。知らない世界の裏では恐ろしいことばかり起こっている、そうなのだ。何だか妙に納得、頑張るしかない。
 知らない者は知らないでいるしかない。
 承知の者は隠し通すしかない。

 殺されるのは痛そうだけれど、自分で死ぬのは良いかもしれない。
 そうだ、死ぬのは良いのじゃないか。

  そうですか、坂を下れば墓場に出ますか
  貴方と一緒に死にますか

 多分私を驚かしたつもりで。死、なんて言えば私が蒼くなって逃げ出すような、そんなつもりで多分この人。(いつだって逃げ出そうとするのを無理に留めておくのは楽しいものだから。ねじ伏せるのは楽しいのだから。)
 でもこれはご存知無かった筈です、わたくしは、

  私も今まで、日に一度たとえば夕暮れ時は、いっそこのまま死んでしまおうと思っていたのです、庭の桃の枝にでも縊れて、死んでしまおうと思っていたのです
  苦しいことは多すぎる、楽しいことなどろくにない
  そしてもう私の一番しあわせな時は、過ぎてしまったのだと知れている、こんなまるで絞り滓のような無意義な時間
  押し寄せる一日一日はあまりにこの身に多すぎるのです
  私も死ぬことばかり考えて今まで生きてきた、そんな時に貴方が言うのなら
  この際、一緒に死にますか

 良いかもしれない、いや、良すぎる程だ、そして此の世が終わるのだ。
 傍らの、男はぎょっとしたように一瞬震えて、けれど私はその気充満。死ぬなら本家の墓の前が良い、白い布地を二枚並べて、谷のように山のように、そしてその真ん中で私が死ぬのだ。きっと美しい、きっと凄まじく美しい。
 ああ、この傷すらなければもっと良いけれど、この血すらなければもっと良いのだけれど、月の巡りだからしょうがない。きっと私を解剖した医者は驚いて、私を奇異の目で見るに違いない。
 どうでもよい、私はその時もういない。

 西日のような斜めのランプがともる呉服屋の中で、男が二人、背筋を伸ばして向かい合う。商談が見事に割れたので、これから互いの命を賭けて決闘を。
 あの背の低い男のほうが勝つに違いない、片方よりもずぅっと軟弱そうに見えるけど、相手方は自分で刀につまづいて、咽喉を突く。

 そうだ。

  私、なんなら順番を譲っても良いですよ
  こんな時、世間では男のかたが先に女を送るものでしょう、それから自決をなさるのでしょう
  けれど貴方にそれほど度胸がおありになるとも思えないから
  私、順番をお譲りしましょう、先に貴方を送ってあげて、それから自分で始末をつけます
  私、必ずやってみせるわ

 もう後ろのほうになった呉服屋から、先刻の小男が出ていった。返り血も浴びない、呆然としたまま、魂の抜けたようにふらふらとして。

 人なんてあっけなく死んでしまうもの、

 彼の後ろから、だらだらと血を滴らせ這い蹲って追う、もう一人。ああ、驚いた、あんなになってもまだ死んでいない、彼奴、死んでいない。
 どうでもよい、彼らと何の関係もない。
 されど、

 人こそが土壇場にしぶとく生きるもの、

 生命の生命への執着、と言うのなら、それが理性をつっぱねた遺伝子に残る最後の野性の名残、と言えるのか。高尚、なんて言葉を掲げて今まで来たけれど、それこそは本能に逆らう生き様の筈。

 私が、もしも、同じように縋り付いたらば。
 流すだけ血を流して尚、最期の一呼吸を惜しんだら。

 唱え続けた高尚はそこで嘘になる。
 本能に逆らいもう×年も掲げた大儀が、その一瞬で完全無効。
 二度とこの生においては、その誓いこそが意味を失う。
 もう二度とあの日々の無いこの生、其処に執着するようなことは、あの日々無しの有り余る時間を惜しむということは、許されない。許されないそのようなことが、もし終着に、即ち新生に、挑むまさにその時に起きようものならば、今までの日々は、これまでの日々が、

  ああ貴女、本当にそれで良いのですか、
  朝はまだ寒いのではないですか
  せめてもう少し春になってから、桜の花が綻んでから

 隣の男は、見透かしたように静かに言って、最早私を畏れる様子も無しに(そのとき思う、いつから立場は反転していたか。)、薄明けかかる朝陽の中でそうっとそっと、哀しげに笑んだ。唇を軽く閉じたまま、眸だけが哀しくも優しげな、男の顔は、彼の人の顔を投射したかのように似て、

  そう 桜の花が綻ぶ頃まで

 椅子ばかり天井から吊り下がる店の中で、床の上には埃をかきわけ、線をひきつつ進む蟻。進むうちにも埃が上から降り積もり、蟻の黒すら曇るのだけれど。まるで螺旋を巻かれたかのごとく、じたばたと足を動かすことをやめはしない、
 愚かな生き物が、あったもの。

  せめてもうすこし 春になるまで

 車が止まって二人は降りる。西と南に歩き出す。

 桜の咲かない春は続いた。

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