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柳刃蛍

 妹はあれから泣いてばかりいる。
 姉様は毎日、垣根のむこうから悲しそうにこちらを見ている。
 私は家のほうに軽く手を振ってみるけれど、隣に座っているその人が厭そうにするので、すぐにその手を下ろしてしまう。
 時折蛍が飛んできては、吸い込まれるようにして私の中に消えてゆく。

   *

 出逢ったのは夏の宵だった。
 蚊帳の外を飛び交う蛍を追って、庭に面した簾を持ち上げたとき、生け垣の外を流れる水に渡した御影の橋のたもとの柳の根もとに、その人はいた。
 世界は蒼かった。
 蒼くて暗い、夏の宵のなかを、蛍はその人に向かって飛んだ。
 そして浴衣のあわせのあたりに、吸い込まれるようにすいっと消えた。

 揃わない前髪の、細いうなじの、彼の真後ろに立つ柳のようにしんなりと、まるで揺らめいている昼間のカゲロウのような、輪郭だった。

  娘御、こちらへ
  こちらへいらっしゃれ

 眸を細めて、白い手で招かれて、けれどその人のほうに誘われるまま行ってしまったら、二度と同じ家の中には戻れないような気がしたので、思わず、

  いえ、貴方がこちらにいらしては

 返事をしたらば、その人は失望したように眉根を寄せて、消えてしまった。
 枝垂れた一本一本の、まるで針のような葉影の間に、隠れるように、消えてしまった。
 妹が私の後ろで寝返りをうち、月光が空からさっと降りてきた。
 私は自分の白い寝間着の、寒く青白い反射を受けて、蛇を目の前にしたように、凍えて指すら動かせなかった。
 夏のさなかに。

 月を雲が遮って、庭に生温い闇が憚るように戻った時に、ようやく肩をがやがやと揺らして、一つ呼吸をすることができた。

 次の晩は今にも雨が降りそうな黒い厚い雲に覆い込められて、まるで頭の上まで空が低くなったような圧迫感。その中を、まるで導かれるように、庭をまっすぐ横切って、緑に光る蛍がよろよろ飛んで来た。雷鳴に驚かされて、雨戸を閉めようと縁側に立った私にまっすぐ飛んで来た。
 顔を上げるとやはり、御影の橋を渡ったそこに、柳の枝に隠れるように、その人が。
 夏の夕暮れの電灯にしがみついてふるえるカゲロウのように、さざめくように。なまあたたかい風がぞわぞわ撫でるように行くたびに、柳が揺れる、柳が揺れるとその人の輪郭はちらちらと動く。暗雲の上の月が宿ってでもいるかのように、銀かと見まごうような髪、青く寒々と光る浴衣のあわせ、そんなものがちらちらと動く。そしてそのあたりに蛍は、今日も吸い込まれるように、飛び込んでいった。

 懐かしい恋人に再会でもしたような気がした。

 昨夜感じたわけのわからぬ恐ろしさは、消えていた。
 くつぬぎの上にころんと脱ぎ捨てられていた下駄をひっかけて、胸の下までの高さしかない生け垣の側まで私は進んだ。
 近くで見るとまるで女のような華奢な人だった。
 私が足を止めると、一瞬その顔に失望が浮かんだけれどもすぐに隠して、

  いらっしゃった

 独り言のように言って、なめらかに笑った。

 「いらっしゃった」。
 と、その言葉が、何故か深く、けれど遠慮がちに柔らかく、私の心を割った。緩やかに喰い入っていく、その速度の遅さが痛みを増した。
 この人は、こんなようにただ素直に、この御影の橋のたもとでずっと、その柳の木の下でずっと、枝に隠れて柳葉に輪郭震わせて、震わせながら人を待ち続けて、いたのだろうか。
 それを思うと哀しくなった。
 胸がキリキリとした。
 待ってそれから、何をするでもなく。待つという行為自体がこの人を取り巻いてがんじがらめにして、そんな風にずっと捕らわれていたのであろうか。夏の宵に、まとわりつくように風を吹かせて、蛍を飛ばして、光るほど白い頬で、銀のような髪に横顔を隠して、この柳の下で。
 そうして今、私を歓んでくださった。
 私を待っていたわけではないのだろうに、私の訪れを、歓んでくださった。

 ほぅ っと、冷たい静かなそして心地よい青い炎が私の中に、ともったような、心地になって。
 私の胸元から小さな蛍が一匹、糸のように光の尾をひきつつ飛びだして行った。

 気がつけば私は生け垣を越えていた。
 その人の横に、御影の橋のたもとに、柳の木の下に、その人と並んで立っていた。
 訝しく思うほどに私の意識は俗なものではなく、

 冷たい 静かなそして 心地よいまるで、月のように輝きを発するかの如きその人の細い、顎を見上げると、

 銀の鈴が寺の御堂でひとふり、しゃらりと鳴ったのを、離れた山門の下で幽かに聴いたかのような、そのような儚げな顔で彼は微笑んだ。

  いらっしゃった

 そう、もう一度、噛みしめるようにゆっくりと、仰った。

   *

 それ以来私は此処にいる。
 何をするでもないけれど、仕合わせでいる。
 横には同じようにあの人がいる。
 彼は前を向いたり目をつむったり、時々私を見つめたり、また別の時は、浴衣のあわせから飛びだす蛍の行方に視線を重ねたりする。
 生け垣の向こうには母屋も見える。
 時々縁側に母様が立つ。父様はいつも背中ばかり向ける。妹はあれから泣いてばかりいる。
 姉様は毎日、垣根のむこうに立って、悲しそうにこちらを見ている。けれど姉様の視線は私を突き抜けて、どこか遠くの方へ流れてしまう。
 私は時折、家のほうに手を振ってみるのだけれど、その度に隣に座っている彼が、憚るようにきゅっと眉根を寄せるので、すぐにその手を下ろしてしまう。
 宵には蛍が飛んできて、吸い込まれるように私の中に消えてゆく。

[2004/11/4 (Thu)]

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