終焉廣小路
空が堕ちてくるというので、誰も彼もが逃げまどっておりました。
紅い空の下で誰もが自分の身を守るのに精一杯で、逃げ場を探していたのです。
私は市子を膝に抱き、帰りを待っておりました。
Dは戻らないから、あんたもさっさと逃げるがいいよ。
誰かがそんなことを言いながら、足早に通り過ぎて行きました。
髭をちくちくと生やした男の人は、私の肩に強くぶつかり、振り返りもせずに先を急いでいきます。
みんな自分の進む方しか、目に入らないような顔。
もしその導線に踏み入れば、突き飛ばされてしまうので、私は小さく身をすぼめ、市子を膝に抱いていたのです。
帰りを待っていたのです。
市子は眸を動かさず、きりりと紅した唇をすまして、嗤い顔。
ねえさまねえさま、みんな死ぬのよ。
冷たい指はこわばって、市子は少し俯きました。
くくっと細い肩震わして、市子の身体は嗤うのです。
ねえさまねえさま、貴女も死ぬわ。
そうね、そうねと頷きました。
ぱさぱさひろがる市子の髪を撫でつけて、縮緬の振り袖を、綺麗にのばしてやりました。
市子は少し俯くのです。
眸は動かず、紅した唇で微笑んで、真っ黒の眸は動かさず。
ねえさま、ねえさま。ねえさま、修羅は、まだ遠い?
通り過ぎる、もろもろの姿を見送りながら、帰りを待っておりました。
空はどんどん紅くなり、ごうごう風も堕ちてきて、遠くでは、ぎゃあ、と、誰かの叫び声。吹きすさぶ風の中に、たまさか狂女が笑います。崩れかけた質屋の角では、細い白髪をひょろりと垂らした老人が、報いだ、報いだと、両腕を振り上げてわめくのです。老人の声が何やら不快に反響するので、思わず市子の耳を塞いでいました。
市子は彼女の小さな頭を、左右から挟む私の手など気にも介さず、俯いたままでまた言うのです。
ねえさまねえさま、彼奴が来るわよ、真っ直ぐ、来るわよ。
誰?と思わず聞き返したら、市子は更に俯きました。
お腹の膨れた女の人が、あっと叫んで転びましたが、誰もが迷惑な顔をして、その人を踏み越えて行くだけです。女の人とそのお腹は、踏みつけられるたびに平たくなって、ついには紙のように、ぺらぺらに。たくさんの踵に踏み千切られて、ぼそぼそと風に飛ばされました。
空はいよいよ紅黒く、風はぶるぶると、うねって大きな口を開けます。
ねえさまねえさま、見て、小面が。
市子の言葉に視線を正すと、金色堂の千の能面が、かんらかんらと音をたてつつ、空へと昇ってゆくところでした。毎春、お骨を奉納するたび、願を刻んだあの小面が。
とうとう般若になれずじまいね。誰かが横で、そう嘲りました。
こおもて、こおもて、かんらから。
うふふ。くすくす。膝で市子は嗤うのです。右に左に、ゆらゆら揺れて。おかっぱの髪が、まるで逃れがたいと言うように、離れては引き戻され、離れては、引き戻され。こおもて、こおもて、かんらから、市子の歌は止みません。
金色堂の能面は、きらきら炎を照り返し、ぐんぐん空へと近づいて、やがて小さく、消えました。とうとう般若に、なれずじまいで。
人は誰もが、気にもとめずに、急いで行きます。むこうの駕籠屋の二階の障子が、すぅっと細く開きました。
ねえさまねえさま、センジが居るわ。
頭を変わらず俯けて、市子は彼を見出しました。開いた障子の細い隙間は、暗くて中が伺えませぬ。微かに映る影を見るなら、確かに誰かが覗いております。
残念だけどお人違いね、センジさんなら此処にはいない。とうに異国へ行かれたはずよ。
けれど市子は翻さずに、
ねえさまねえさま、センジが居るわ。
凛と紅した唇で、眸は地面を向いたまま。市子はまるで命ずるように。
障子の影は微動だにせず、白い目だけがぎらりとしました。
違うわ市子、センジさんなら、とっくに死んだ。もうあの部屋には居ないのよ。
ねえさま、センジよ、戻ってきたのよ。
市子がそれを突きつけたと同時、障子はすとんと閉じられました。あとには同じ、ただ逃げまどう人々の、悲鳴、叫声、断末魔。
見上げる空には星々の円く、なんと大きく見えること。
空が堕ちると誰かが言って、空は確かに真っ紅に燃えて、誰もが逃げ場を探しておりました。誰もが自分のことだけを見て、誰もが過去を腕に抱えて、思いつく限りの過去を集めて、救いを求めていたのです。
空の薄膜は最早限界、地上から吸い上げた血を溜め込んで、真っ紅に真っ紅に、どぽりどぽりと垂れ沈みます。
ねえさま、空は、破けるわ。
誰もが同じ方向を目指し、一心不乱に歩いております。白と茶色のだんだら猫は、一瞬空へと吸い上げられて、けれど途中でぐしゃりと落ちます。尻尾の先からしゅるしゅる崩れて、砂にかわって散らばりました。残された二つの琥珀の眸は、ころころ何かに、引かれるように、ころがって。人々の足下をかいくぐり、あっという間に、見えなくなります。
頬の汚れた幼いこどもは、それより少し背が高いだけの、やはりこどもに手をひかれ、大人の流れにのまれてゆきます。あっという間に、のまれてゆくのです。
何もかもが、あっという間でございます。目の前に現れたと思ったら、もう遠くです。これほど違う顔ばかり、よくぞどこからか、湧くものでございますわね。
ねえさまねえさま
市子は私を呼びました。
ぬるり、紅した唇で、暗い眸を地面に据えて、振り袖の先からのぞいた白い指を、ぴくとも動かさず、きちんと揃えて置いたまま、市子は私を呼ぶのです。
ねえさま、お解りにならないの、
ねえさま、Dは戻りゃあしないわ、
ねえさま、貴女は捨てられたのよ、
ねえさま、貴女はひとりぼっちよ。
ずっとずぅっと、ひとりぼっちよ。言って市子は嗤うのです。市子はくすくす背で嗤うのです。
そうです誰もが、ひとりぼっちです。
せんから私は、ひとりぼっちです。
市子は御利口。市子の言うように、誰もが死にます。
走ったって無駄なんです、逃げ場所なんてありゃしない。
どんな場所でも空の下です。ぐしゃりと潰れて、それぎりでしょう。急いでいようが、止まっていようが、おんなじでしょう。着のみ着たまま走ろうと、白無垢抱えて走ろうと、最期は同じ。潰れるだけです。
彼奴が来ましょう。
真っ直ぐ、来ましょう。
ここを目がけて、暗いもやもや引き連れて。
彼奴は真っ直ぐ進むから、ここは餌食に格好の場所。
やがて真っ紅な空は破れて、流れでた血は雨となり、流れでた血は瀧となり、流れでた血は川となり、流れでた血は海となり、流れでた血は、流れでた血は、人を残らず溺らせましょう。人を残らず沈めるでしょう。
空が堕ちてくるというので、人は誰しも、逃げ場を探しておりました。
市子はことりとくずおれて、もう一言も語りません。
私はひとりぼっちです。
| 2002 / オハナシ |