湖上花(未完)
川のように細長い湖は、山から舞い飛ぶ桜の花を湖水のおもてに敷きつめて、白く緩やかに蠢いておりました。ゆらりゆらりと、うつろい、たゆたう幾万の花片は、春特有の気怠さを。そして、ぬるい空気の中に滞る、そこはかとない虚ろなものが、白岩の上に佇んだ、女の肺を満たしていたのです。
表を半分も楓に覆われた白岩は、対岸の赤岩と対を成し、湖面にぽんと突き出して、湖の輪郭に、小さなくびれを加えています。女は今その上に立ち、目の前に横たわる湖と、それをまたいで霞に白んだ、緩やかな山の起伏を見ているのでした。
ここで死んだらば、きっと私の身体はあの花びらに囲まれて、船首を離れた聖母の像のように、美しく見えやぁしないかしら。
そんなことを、ふと考えて、女は首を傾げてみます。幼稚な自分の考えを、嘲笑するほどの見栄すらも、最早残ってはいませんでした。
私ときたら、まるで道化だ。
心の底から、空っぽになった心地がして、思わず首を二回、三回、強く左右に振りました。
遠くの湖面を、細い三日月のようなボートが一艘、花弁の膜を、すうっと切り裂いて進んでゆきます。
実につまらなそうな顔をして、女はそれを見送ると、岩の上にぺたりと座りこみ、懐から手帳とペンを取り出して、その手記を綴りにかかったのでした。
細く延びた花の香りが、するりと頬をかすめた瞬間、その花の名を思い出そうとして、女はつと顔を上げ、刹那、怖ろしい悲壮の記憶に囚われて、それから膝の上に視線を落とし、少しくインキを滲ませながら、紙の上に表れた最初の言葉は、『遺書』。
*
私ときたら、まるで道化です。
私は死にます。
死ぬしかないのです。
あまりに恥ずかしい思いをいたしました。
きっかけは、つまらない事。自惚れと傲慢が招いた、どこにでもある、ただの失恋です。けれどそれは、こうなる為の、本当に一つの、きっかけでしかないような気がしてなりません。もしこれをやり過ごしたとしても、私はやはりいつか再び、自分の中に渦巻いているこの業の深さに、喉を塞がれていたでしょう。
死ぬ方が、私自身の為に、良いのです。
どうか嘆いてくださいますな。
私は、安らかに眠りたいのです。
このように美しい春の日に、花の海に身を投げることは、幸福です。
春に、桜に、青い空は、似合いません。
雲が幾重にも空を隠して、その灰色を背景にした桜の山は、とても自然で、この景色の中に、間違った要素など何もないように、思われます。そう。間違えているのは、私だけなのです。花も、水も、木も、風も、何も間違えはいたしません。摂理を取り違え、思い込み、間違えているのは、私だけなのです。
必要以上を期待いたしました。
自分という人形を舞台の上に据えて、針で刺したほどの小さな傷をふりかざし、不幸を気取り、徒に人を傷つけました。
一人の青年の、無垢な恋を、踏みにじりました。
それから空っぽな自分の手のひらに気付き、慌ててもう一度それを拾い上げてみたらば、もうそれは砂のようにさらさらと、指の間からこぼれ落ちていったのです。
私。私はまるで、道化です。
惨めです。死ぬしかないのです。
くたくたに、痩せ衰えていくよりは、ここで安らかに、眠りたいのです。
あの人は、素晴らしい才能を持った、芸術家でした。
私はあの人のお描きになる絵が、とてもすきだったのです。
けれど一度も、それを口に出したことは、ありません。あの人がどれほど絵に打ち込んでいるかを知っていて、知っていたからこそ、私はあの人の作品に、口を出すなど、できなかったのです。
私が初めて見たあの人の絵は、濃紺の闇の街に、四角い一つの建物。その入り口から漏れる光。
この光は、私のことですね。
何の躊躇いもなくそう問いかけた私に、あの人は一瞬驚いたような顔をなされ、それから微笑んで、うつむいた。私にはわかっていました。あれは照れ隠し。
あのように素晴らしい才能を持った方に恋をされ、必要とされて、私はまるで、自分がミューズにでもなったような気でいたのです。これほど幸せで誇らしいことは無いと思い、そして私も、初めてお逢いした時から、あの人がすきでした。この先には、幸福以外の何物も存在し得ないと、浮かれ、のぼせていたのです。
ただ過去の悲哀が、少し気掛かりでした。
あの人と初めて向かい合い、話をした時、やはりあの人は少し照れて、私に横顔を向けていらした。その横顔を見つめるうちに、私の思い出した、ある人のこと。
この人は彼に似ている。
あの思考すらなければ、私はもう少し素直に、その恋に踏み切れたのでしょうけれど。
八月の終わりに初めてお逢いした時、私たちはお互いの印象を恋に結びつけ、けれどそれとは気付かぬままに、わずかな間、手を握り合って、そうしてそれは、私たちが何の構えもなく膚を触れ合うことのできた、最初で最後の瞬間でした。
私は、順序を間違えたのです。
私はあの人を、すきでした。
あれは、多分に恋でした。
胸の躍るような心地。それでいてどこか、何か、秘密めいた罪悪感。常にその裏にあるリスクを意識して、細い糸の上を辿るような危うさ。
あれは恋。私はそれを、間違えてしまった。
あの人の気持ちを知っていながら、私は、随分冷たい態度を、取ってきました。階段であの人が私を待っていてくださった時に、知らぬ顔をして、行き過ぎました。あの人が一歩私に歩み寄れば、私は反対の方向に、一歩。けれど私は、決してそれを、意地の悪さから行ったわけでは、なかったのです。
でもそんなこと、言い訳にもなりません。
あの人が真実を知って、私を責めてくだされば、それはどれほど楽だったでしょうか。
あの人が私を、蔑んでくだされば。
私はあの人をすきでした。けれどその恋は、徐々に醜く変貌していった。もはや初めの頃のように、純粋な好意ではなくなりました。あのように感性の優れた方を、その人の恋心を、占領していることが嬉しくて。
私はあの人のことを一つ知り、また一つ知っていくたびに、醜い私益の感情に捕らわれて行ったのです。初めてあの人に逢った時、まだあの人のことを何も知らなかった時、私は純粋に、あの人の穏やかな容貌に、そしてその表情の奥から透いて見える、愁いの翳りに、純粋な恋をいたしましたのに。
あの人は私のつたない言葉を、真剣に聞いてくださって、茶化すこともなさらずに、ほんとうに、真剣に。それ故に私は、あの街で何とかやっていこうと、思うことができたのです。大切な人のいないあの街で。
私はあの人に恋をしようと決めました。そうして、そうすることで、あの場所に踏み止まろうと。
私は、戻るわけには行かなかったから。
どこで間違えたのかは、わかっています。
十月のあの週末に、私が、区切りをつけようという大義の下に、もと居た場所へと舞い戻ってしまった、あの夜に。
私は何もやましいことなどありません。それについては本当に、誰もが私を信じてくださらなければいけない。あの人はいつも私を、信じ過ぎるほどに信用してくださいました。けれどあの時のことだけは、未だに間違った真実を、その胸に植え付けていらっしゃる。私もまた、あの人の誤解を敢えて正そうとはいたしませんでした。何事かあったと思うほうが、まだ説得力がありましたから。
ただ遠目に顔を見ただけで、あの人への恋の負けていることを悟るなど、あまりにも、残酷で。
私は、何故あそこに戻ってしまったのか、知っています。
発つ前は、偏に思いつづけていました。逢えば良いのだと。思い出の、磨かれていく性質故に、過去の男があの人に勝って見えるのだと。ですからもう一度逢って、二人を同じ時の上で比較して、そうすれば、あの人の当然過去に勝っていることなどは、歴然だろうと。
とにかく逢えば良いのだと、信じていたのです。今考えれば、無茶苦茶なことでした。
要するに私は、もう一度お逢いしたかった、それだけだったのでしょう。
もう二度と再び顔を見ることはないと書き残した、その手紙の別れを、覆したかっただけなのでしょう。
私の中に君臨し続ける偶像を、一目仰ぎたかった、ただ、それだけの為。
それだけの為に、私はそれと知らぬまま、その先にあるすべての恋を、放棄したのです。
*
そこで女は、一旦腕を休めて、湖面へ視線を戻しました。
先刻あちらに見えたボートが、ぎいぎいと重たげな音をたてながら、目の前を通過してゆきます。
人は間違える。
女はぽつりと考えました。
何をやっても、仇になる。
少し泣いてみようかしら、などと思い、それからそれが、ただの格好に過ぎないことを悟って、今度は本当に、心から哀しく、そうして、
呼吸だけを乱して、泣きました。
涙はもうひとすじも、流れぬままに。
あれほどに痛ましい嗚咽を、山の桜は、聴いたことがありません。
*
あの式の最後に、私が友人達と集まっていた時、ふと振り返ると、あの人がいらっしゃった。御友人と離れ、ただ一人、壁の前に立ち、こちらを見ておいでだった。その様子があまりに寂しげで、切羽詰まっているように見えて、私には、今にもあの人が一歩を踏み出し、私に選択を迫るのではないかと思えて。怖ろしく。
そんなことを、なさってはいけない。答えの出しようがない。いいえ、それはもう決まっている。
けれどあの人の様子が、あまりに寂しげで。
私には、泣き出してしまうのではないかと、見えました。
私は咄嗟に、無理だと思った。あの人が動揺しているのと同じほど、私も動揺している。あの人に、この状況をわかるように説明するのは、到底無理だと。
そう思ったから、逃げ出すことを選んだのです。
いつもいつも、正念場からは、逃げている。
私のような難しい人間を恋することは、易しくはないでしょう。
私がどれほどあの人に感謝しているか、そんなことはとても言葉では表し切れません。あの人がいてくださらなかったら、私は何一つ、乗り切れなかった。私を支えて、持ち上げて、いつもあの人は、私に過ぎるほどに、良くしてくださった。あの人がそうと気付かぬうちにも、私はどれほど、あの人のそこに居てくださったおかげで、救われていたか
*
おぞましい物でもあるかのように、突然ペンを投げ出しました。
湖水に、とぷりと微かな音がたち。
何一つ本当ではない。
彼女は気が抜けたように、書いたものを読み返してみて、それから、その紙を縦に一度、横に一度引き裂いて、破片を重ね、膝の前へ無造作に据えると、元来た道を戻って行きました。
湖底へと真っ直ぐの途。
*
彼はそこで語りを止める。
煙管を打ちつけて、遠くにある白い岩へと顎をしゃくった。
僕は目の前に広がる水鏡の、くらくらと互いに凭れる様を眺めつつ、欠伸を一つ、外へと放つ。櫂の、水に揺れる音ばかりが、湖水を囲む山に響いていた。
「つまらないことで、人は死にたがるものですね」その先にあるすべての恋を、放棄した
老人の話に感慨も無く、ただそう告げれば、彼は笑った。
雲のない晴れた日には女が出るという噂から、興味本位に訪れた湖は、季節の違いもあるのだろうが、そのような逸話を抱えるほどに、神秘的とも思われぬ。紅葉にも時期が遅すぎ、立ち枯れるような木々に囲まれ、水面に浮かぶのは朽ち葉のみ。
つまらない事でしょうか、と、老人が問う。
つまりませんよ。つまらない。
そのように心残りがあったのでは、何の為に死んだというのです。浮かばれない、いや、浮かばれないどころの話ではない。彼女にとって、死は逃げ道であった筈なのに。救済であったはずのそれに、いつまでも縛り付けられるなどとは、それこそ笑止。
無性に腹が立つ。
逃げても逃げ切れない。
過去は死をもを超えて縛り付ける。自分という存在を支えているのはそれしかないのだから。
何故逃げ切れない。
女は所詮、死によって自己を捨てきれなかったのに違いない。未練があったのに違いない。
腹が立った。
帰ろうと思い、老人を促して舟を動かし始めた途端。背後の山をざわめかせ、風が艇をめがけて降りてくる。秋もそろそろ終わりかという、この十月の空風に、小さく淡い花弁が混じり、おや、と思った一瞬の隙。
つまらぬこと なれど
空気の中に、一語一語が放たれて、それを合図としたように、湧き上がる花に舟は呑まれた。
息もつけぬほどの、花の渦。視界を覆い尽くす狂宴に、もしも心が凍るなら。
貴方も境界を越えている。
舟の舳先に蒼い両腕絡ませて、顔半分だけ現して、僕を突き抜けるほど強い眸で女が視ていた。
| 2000 / オハナシ |