2000 / オハナシ | トップページへ戻る

短髪

 九月、彼女は血を吐いた。
 喉をかきむしり、血が滲むほど強く唇を噛みしめて、その少女は虚ろな瞳で私を見上げた。
 大地の色だ。
 そうして、電流でも流れたかのように身体を震わせ、喉を空気が流れる微かな音を遮り、彼女の言葉は血に染められた。
 「私には恋人がいます」
 そんなことは聞かずとも知っていた。
 「気が狂いそう」
 そう呟いた人の横顔は、目眩がするほど美しかった。
 私には、彼女を救うために、一体何ができただろうか。

 十月、夢を見る。
 私は青い瞳をした人を両腕に抱え、月の夜道を歩いていた。
 車に乗り込もうとしたところを呼び止め、歩きませんか、そう誘ったのは私の方だ。
 いつか、周囲を歩いていた友人達は消え去り、私は何かたわいもないことを、ぽつりぽつりと話しながら、ゆっくりと歩を進めていた。
 頭の上の群青の空の中心で、わざとらしいほど円い月が、周囲の木々の輪郭を地上に描いていた。
 私の足が私たちを運んでいるのか、それともただ周りのものが動いているだけの錯覚か。
 否、そんなことはどうでも良かった。
 腕の中で、その人はしきりに手を動かしている。まるで赤ん坊のようだ。私がお嫌いなのだろうか。ふとそう思い、
 聴いているのですかと、半ば責めるような口調で、その人の目を覗き込んだ時だった。その人が、ぐっと顔を持ち上げて、私に口づけた。
 たった一瞬の、けれどまとわりつくような、じっとりと湿った接吻だった。唇が離れた瞬間から、二人とも呆然として目をそらした。
 私にはわかっていたのだ。あの人の目を覗き込めば、どうしようもない衝動に駆られ、あの人がそうするであろうことくらい。
 そうして、その口づけに、少しの愛情も込められていないことも。
 目が覚めてしばらくして、ふとその濡れた感触を思いだし、思わず手の甲で口をぬぐう。
 どうしようもなく、

  厭だ

 そう思った。

 冬の始まりに、五つ歳の若い少年に出逢う。
 彼は私の上で吠えた。
 陽性の男。
 髪の色も目の色も、よく知りはしないが、多分人柄までも。
 肩で息をしながら、子供のように倒れ込んでくるその人を受け入れることはできた。嫌悪はなかった。
 かわいらしい人としか。
 けれど、心の中で強く固まっていくものは、否定だけだった。彼を好いていた、それは嘘ではないけれど、その好意が、好意以上のものに成り得ないことを知っていた。
 心の奥底にいる私自身が、彼を必要とはしていない。
 どこかで一度耳にしたことのあるような言葉ばかりに気をとられ、切実で飾らない真実こそ核に届くということにまだ気がつかない若さ。
 その人の薄い瞳の中に、私は一度でも、どのような絆も、見いだしたことはなかった。
 なぜそこまで私を求められるか
 そう問えば、無邪気な顔で微笑み、額の汗を振りはらい、
 愛しているからです
 事も無げに吐き捨てた。
 ああ、この人は何もわかっていない。
 愛するという言葉の意味も、自分をこうも突き動かしている欲望の正体も。
 それに気付いていなかったわけではなく、ただ、確認しただけだと言ったらば、それは強がりに聴こえるだろうか。
 愛と所有とは別のものだ。
 いや、同じものだ。
 それでは、私が捨てきれずにいるこれは、恋か。

 目を開けたらば、それもまた、ただの夢であった。

 十一月、彼が去った。
 あまりに突然に、いつが最後だったかもわからないまま。
 そこから全てのことが、少しずつ少しずつ狂い始めたのだ。
 水が流れを反れ始める。
 唇の端から水が漏れる。
 皮膚にぽつりぽつりと、赤い発疹が出てくるのを止めることができないように、

 私は雪が降るのを止められなくなったのだ。

 十二月、歯茎に膿がたまる。
 自分の孤独を思い知る。誰もが私を去った。私は必要とされていない。どうして生きているのか。私がいなくなったところで、声が枯れるほど泣く人はいない。それならば、自己満足のために生きているだけならば、ここで死んでも悔いはないではないか。
 一年前の夏に逝った人の顔を思い出す。何故あの人が。私が代わりになればよかったのだ。時間を戻して、私の命を代わりにすることはできないものか。
 左の眼からぼろぼろと涙が落ちた。
 その日も私は人を傷つけた。
 死んでしまえ。皮膚を少し切り裂けばよいのだ。

 その時私は、言うなれば、何かに憑かれていたのだろう。

 一月、闇を見た。
 半紙に墨を落としたような、例えようのない深い深い闇。
 それは私の内に眠る、最も密度の濃い、こころというものだったかもしれない。

 春の始まりに、息を吹き返す。
 切り揃えた髪が私を惹いた。
 ふと気が付くと、三年経っていた。
 出逢うのが早過ぎたのかもしれない。
 けれど私には、過去も未来も、そう成るべき一つの結果を除いては、変わり得るわけがないと思われたのだ。
 
 二ヶ月ぶりに、いや、殊によると四ヶ月ぶりに、正面から見据えたその人の瞳の中に、私は最早、以前のような慟哭を見いだすことはなかった。一瞬、凪は乱され、水面下で爆発が起きたかのように、波がぐわりと持ち上がったが、それもいつの間にか、白日の下に押さえつけられていた。
 私は静かに、私の中で一つの季節が過ぎ去ったのを理解する。
 この人は、もう私から何も絞り出す力はないのだ。

 雪の中から、輪郭の無いものが起き上がる。
 それはもう、人の形を成してもいなかった。
 私だけが取り残されている。
 どろどろとした塊。
 未練、だとか、残像、といったものではない。 
 私が己の身を横たえた、呪縛であった。

 抜け出し得たと何度も思い、その度に、更に深く沈んで行く。


 雪が降るたび、心がどうにも扱いづらく。
 夢の中で、私はいつもあの人を捜している。

| 2000 / オハナシ |

△ Page Top