終輪
雨が降っていた。
時期が悪い。よりによってこの日に降らなくても良さそうなものだ。不機嫌な顔をして彼女は窓の外を睨んでいた。名も知らぬ背の高い木の葉が、ぱたぱたと雨に叩かれる。そこから止めどもなく、だらだらと落ちる滴。
吐き気を感じてうつむいた。
厭。
日付など問題ではなかった。そんなものはただの活字。
けれど、この気温が。雨の匂いが、音が、空の色が、一年前の記憶を身体に呼び戻すのだ。
記憶は脳だけに溜まるものではないのだと彼女は思う。
指を雨空に翳す。
すっかり洗い流したと思っていたが、爪の端で血液が凝固していた。おもむろにその指を鼻先へ持っていく。
水分を取り戻した赤黒いものは、微かに鉄の香を放った。
瞼の裏をよぎる残像。
浴槽から溢れ出る水の音。
水と共に流れ出るもの。
排水口の周辺が赤く浮かび上がるのが、焦点を失った瞳にぼんやりと懸かる。
ここまでしても、まだこれは起き上がるのに違いないのだ。
血を失い、身体中に傷跡を残したままで、それでもまだこれは起き上がるのだ。これをいつまでも繰り返し、たとえこれが細胞一つの、ただそれだけの生命になっても。これは必ず起き上がり、私の背中にとりついてくるのに違いない。
否、確かにそうなのだ。
浴槽の淵にかかったその指が、微かだがしかし確実に、ぴくりと動くのが見えた。
*
殺しても殺しても、起き上がってくるものをご存知ですか。
指の先で、草の葉を弄びながらそう問うと、まるで巫山戯た口調の答えが返る。
─さぁ。温度に問題でもあるのですか。いや、湿度かもしれない。
駄目だ。この人は何もわかっていない。
何故、いつもいつも起き上がってくるのでしょうか。
その問いに彼は応えず、ただ薄く微笑んだ。
答えを知っている。
この人は答えを知っている。
それを敢えて口にしないのは─
遠くで雷が鳴った。
あなたが御自分で、見つけなければいけないのです
無理だ。
できるわけがなかった。
肉を削ぎ骨を裂いても、私がそれを突き止めない限り、この何かは起き上がってくる。
怖ろしい、とは思わず、ただ、疎ましかった。
*
恋しかった。
いっそのこと、呑まれてしまいたかった。
苦しかった。
終わらせるものなら、終わらせてしまいたいとも願った。
けれど心のそこではやはり、失うことが、結局は一番、怖ろしかった。
どれほど長かろうと、辛かろうと、もう二度と恋ができまいと、幸せを得られまいと、かまうことはなかった。私はこの残像を、死体であろうと何であろうと、とにかくこの正体のわからないあの人の顔をしたものを、首を絞めても突き落としても焼き払っても切り刻んでも、何を為しても起き上がってとりついてくるこのものを、もうただきつく抱きしめて、しっかりと胸にかかえて、行けるところまで行こうと。
私は失いたくなかった。
たとえ、二度と、決して、手に入るものではないとわかっていても、もうその機会すら自ら放ってしまったものを、ひっそりと抱えていこうと決めていた。
もう私は、桜の下を掘り返す必要など無いのですから。
そのようなことをしないまでも、それと願うだけで、私はあの人を、背負ってゆける。
もう私は、恋の見張りはいたしませぬ。
見張らずとも、どこへも逃げるはずはない。
ねこは、語るが良い。
雪は、降りるが良い。
鴉。ついばんでも、引き裂いても、もう貴方の前に、私は居りませぬ。
すべての恋は、そのままに、あれば良い。
私の縋りついているもの、私に凭れかかってくるものが、ただの腐りきった怨念でしかないと仰るのならば、あなたの恋人が潰れた蟇に見えることも、その御心に認められるが良い。
| 2000 / オハナシ |