交錯
もう二度と会わないと決めたはずの人を。
初めて、あの頃に戻りたいと思った。本気でそう思った。
板敷きの床に裸足をつけたらば、少し泣いた。
あの人を思い出して、久しぶりに泣いた。
呼吸を落ちつけてから、会わなくなってからの年月を、指を折って数えようとして、
…やはりやめた。
私はもう前に進めない。
とうに通り過ぎたと思っていた場所へ、舞い戻ってしまった気持ちが、果たしてあの人に伝わるのだろうか。
いや、伝える気などもとから無い。
もう二度と会わないと決めた。
その気持ちに変わりはない。
*
私は、二度と会わないと決めた人を、まだすきなのだろうか。
一度でも、私が想うほどには私をすいてくれなかった人を、まだすきなのだろうか。
今ではもう屹度、私のことを思い出しもしない人を。
そうなんだ。
いつだって、あの人は訳が違う。
どうして、夢の中ではもう、顔も思い出せなくなっているのに。
夢の中ですら。
夢ですら、話をするのに、口をきくだけで、こんなに年月がかかった。
どうしようもなく苦しく、胸にふさがるものが、震えながら脹らんでいく。
こんな風に、うまく言えないけれどこんな風になるために、こんな想いをするために、今までずっと歩いてきたんだろうか。そしてこの先もずっと、こんな風に。
だけどもう駄目だ。
だってもう駄目だ。
まだ、ずっと、死ぬまでこれは。
そうだ、そんな事は、そういえば始まりから知っていた。
*
当時の友人と、あの街へ行った。
懐かしい制服を着た人たちが、私たちを出迎える。
その中にあの人の姿が見えないので、少しほっとした。
逢いたかったわけではなく、それよりも、逢える距離に居たかっただけだと言ったらば。
それは強がりに聴こえただろう。
やけに人の詰まったバスの中で、あの人が戻るのを待っていた。
しばらくしてから、友人が恋人と出かけていった。
そうだ。彼らはまだ交際を続けていた。
彼女の後ろ姿を見送り、少し、ほっとする。
あの人は屹度ここには来ないだろう。
そうして、私は待ちぼうけをくうのだ。
それが、いつもの私たちの、正しい在り方だったのだから。
けれどそのことを、他の誰にも知られたくはなかった。ただ待ち続ける私は、屹度ただの馬鹿に見えるのだろう。
他人に邪魔をされずに。
あの人の、私が知らない箇所が気にならず、私たちが逢える場所は、此処だけだった。
眼を交わすだけ。
それが、私にとっては一番安心できる。
私はいつもいつも、此処で待っていた。
これからもずっと待っていられるだろう。
あの人が必ずやってくる事を知っているから。
けれど、一旦バスを出ていったはずの彼女は、息を切らして、途方もなく嬉しそうな顔をして、私を呼びに来た。
早く早く。
待ち人が来ている。
紅潮した頬を見て、他人事のように考える。
どこか遠くから聴こえてきた声のようだった。
自分の事のように喜ぶ彼女を見ながら、人はなぜ笑うのか、それを考えた。
手を引かれて、バスを降りる。
照れくさいという気もあったが、それよりも心にのしかかっていたのは、怖ろしさだった。
顔を上げたらば、遠くのほうにあの人の立っているのが、ぼんやりと見えた。
*
お早う。
どのバスで出かけますか。
*
あのまま、殺されてしまえば良かったのに。
鴉が肩を離れ、気がつくとまた、指がしっかりとくい込んでいる。
言葉を交わしたことなどない。
肌に触れたことすらない。
私はこの人を、殺さなければいけなかった。
ようやくその法を見いだした時、死を覚悟する。
独りぼっちの、けれどこれは、心中なのだ。
目が覚めてから、剃刀を取りに風呂場へ向かう。
己を抹消しなければ、この人を忘れることなど叶わない。
二度と逢わないと決めた。
その言葉に偽りなどない。
けれどその生には、とても堪えられなかった。
私の路は尽きたのだ。
どれだけ歩いても、とうに通り過ぎたと思った場所へと、また戻る。
*
ほんとうに、あの人がすきだった。
他の誰も届かないほどに、高い感情に乗せられていた。
たった半年の時間が、その先の全てを縛り付ける。
もう二度と逢わないと、それから一年、考えて逡巡して、渇望を押さえつけて、ようやく決めることができた。
離れて保つ、それしか私には、手が無かった。
*
別れ際に書いた手紙を覚えていますか。
恋は薄れていく。
けれど逢いたさは、決して消えることはないと。
さくらは散り続けています。
それなのに、花弁は尽きることがありません。
逢わないことを決めてから、忘れることも、諦めました。
| 2000 / オハナシ |