2000 / オハナシ | トップページへ戻る

交錯

 もう二度と会わないと決めたはずの人を。

 初めて、あの頃に戻りたいと思った。本気でそう思った。
 板敷きの床に裸足をつけたらば、少し泣いた。
 あの人を思い出して、久しぶりに泣いた。
 呼吸を落ちつけてから、会わなくなってからの年月を、指を折って数えようとして、
 …やはりやめた。
 私はもう前に進めない。
 とうに通り過ぎたと思っていた場所へ、舞い戻ってしまった気持ちが、果たしてあの人に伝わるのだろうか。
 いや、伝える気などもとから無い。

 もう二度と会わないと決めた。
 その気持ちに変わりはない。

   *

 私は、二度と会わないと決めた人を、まだすきなのだろうか。
 一度でも、私が想うほどには私をすいてくれなかった人を、まだすきなのだろうか。
 今ではもう屹度、私のことを思い出しもしない人を。

 そうなんだ。

 いつだって、あの人は訳が違う。
 どうして、夢の中ではもう、顔も思い出せなくなっているのに。

 夢の中ですら。
 夢ですら、話をするのに、口をきくだけで、こんなに年月がかかった。

 どうしようもなく苦しく、胸にふさがるものが、震えながら脹らんでいく。

 こんな風に、うまく言えないけれどこんな風になるために、こんな想いをするために、今までずっと歩いてきたんだろうか。そしてこの先もずっと、こんな風に。
 だけどもう駄目だ。
 だってもう駄目だ。

 まだ、ずっと、死ぬまでこれは。
 そうだ、そんな事は、そういえば始まりから知っていた。

   *

 当時の友人と、あの街へ行った。
 懐かしい制服を着た人たちが、私たちを出迎える。
 その中にあの人の姿が見えないので、少しほっとした。

 逢いたかったわけではなく、それよりも、逢える距離に居たかっただけだと言ったらば。
 それは強がりに聴こえただろう。

 やけに人の詰まったバスの中で、あの人が戻るのを待っていた。
 しばらくしてから、友人が恋人と出かけていった。

 そうだ。彼らはまだ交際を続けていた。
 彼女の後ろ姿を見送り、少し、ほっとする。
 あの人は屹度ここには来ないだろう。
 そうして、私は待ちぼうけをくうのだ。
 それが、いつもの私たちの、正しい在り方だったのだから。
 けれどそのことを、他の誰にも知られたくはなかった。ただ待ち続ける私は、屹度ただの馬鹿に見えるのだろう。

 他人に邪魔をされずに。
 あの人の、私が知らない箇所が気にならず、私たちが逢える場所は、此処だけだった。
 眼を交わすだけ。
 それが、私にとっては一番安心できる。

 私はいつもいつも、此処で待っていた。
 これからもずっと待っていられるだろう。
 あの人が必ずやってくる事を知っているから。

 けれど、一旦バスを出ていったはずの彼女は、息を切らして、途方もなく嬉しそうな顔をして、私を呼びに来た。

  早く早く。
  待ち人が来ている。

 紅潮した頬を見て、他人事のように考える。
 どこか遠くから聴こえてきた声のようだった。
 自分の事のように喜ぶ彼女を見ながら、人はなぜ笑うのか、それを考えた。

 手を引かれて、バスを降りる。
 照れくさいという気もあったが、それよりも心にのしかかっていたのは、怖ろしさだった。

 顔を上げたらば、遠くのほうにあの人の立っているのが、ぼんやりと見えた。

   *

 お早う。

 どのバスで出かけますか。

   *

 あのまま、殺されてしまえば良かったのに。

 鴉が肩を離れ、気がつくとまた、指がしっかりとくい込んでいる。

 言葉を交わしたことなどない。
 肌に触れたことすらない。

 私はこの人を、殺さなければいけなかった。
 ようやくその法を見いだした時、死を覚悟する。
 独りぼっちの、けれどこれは、心中なのだ。

 目が覚めてから、剃刀を取りに風呂場へ向かう。

 己を抹消しなければ、この人を忘れることなど叶わない。
 二度と逢わないと決めた。
 その言葉に偽りなどない。
 けれどその生には、とても堪えられなかった。

 私の路は尽きたのだ。
 どれだけ歩いても、とうに通り過ぎたと思った場所へと、また戻る。

   *

 ほんとうに、あの人がすきだった。
 他の誰も届かないほどに、高い感情に乗せられていた。
 たった半年の時間が、その先の全てを縛り付ける。

 もう二度と逢わないと、それから一年、考えて逡巡して、渇望を押さえつけて、ようやく決めることができた。

 離れて保つ、それしか私には、手が無かった。

   *

 別れ際に書いた手紙を覚えていますか。

 恋は薄れていく。
 けれど逢いたさは、決して消えることはないと。

 さくらは散り続けています。
 それなのに、花弁は尽きることがありません。

 逢わないことを決めてから、忘れることも、諦めました。

| 2000 / オハナシ |

△ Page Top