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恋文

 実に長い時間、逡巡して、迷って迷って、ようやく、最初の一文字。

 初めてお手紙いたします。驚かれるかもしれませんが、どうぞ、お納めください。

 そこでまた、一区切り。この先いったいどう続けたものかしらと、爪を噛む。
 まるで、大海から一滴一滴、水を運んで、幾億もの硝子瓶に分けて、名前をつけていくような、途方もない作業。手のつけどころすら、わからなかった。けれど私は、これをしなければいけない。もう水は溢れるほどに張り詰めて、今にも世界を沈めてしまいそう。
 気が重い。
 もう、思い付く端から書いていくしかないだろう。そうして、読みなおさずに、投函してしまえば良いのだ。そうなれば後は、天意にまかせるままだ。私の手に負えることではない。
 姿勢を正す。

 初めてお手紙いたします。
 突然のことで、貴方は、何事かと思われるでしょうけれど、どうかお納めください。
 私は多分、この手紙の終いに貴方が思い描かれる、そのままの娘です。多少、変わっているのです。もう昔から、何人もの方に言われてまいりました。貴方もそう思われるのでしょう。
 けれど私は、そんなことを恐れてはいられませぬ。切羽詰まっているのです。追い詰められているのです。愚かなことと思いますけれど、とにかくこれを為さないことには、私はこの行動を、振り返って愚かだったと苦笑することすら、叶わないのです。これはいかにも恩着せがましい、そうして思い込みばかりの、受ける側にしてみれば、甚だ迷惑な手紙になりましょう。けれどわかっていただきたい。
 私は、私の為に、これを書いているのです。貴方の為では、たぶん、ありません。
 こうして書くと、また誤解を生じさせそうで、やはりまだ時期が満ちていないのかとも、思います。
 これがどれほど難しいことか、おわかりになりますか?
 私が一言発するたびに、それは確かに真実であるけれど、同時に必ず誤解を伴い、いちいちそれを解明するための御託をまた、だらだらと続けねばならないのです。でもここで筆を置くわけにも参りませぬから、面倒でも順を追ってお話いたします。

 できれば、この言葉、お伝えしたいことをすべて書き連ねたその後に、気付かれないほどさりげなく、さらりと書いておきたいのですけれど、無理ですね。
 何度目かに読みなおした時、やっと気付くほどひっそりと、書き流すことができれば。そうして、たぶん貴方は、この手紙を読みなおしたりなどはなさりませんでしょうから、永遠に気付かれぬまま。
 けれど、無理なようです。私には、残念ながら、これを書き流すことができるほどの、それほどの純真さが、ありません。ですから先に言ってしまいます。

 私は貴方に、恋をしております。
 初めてお姿を拝見した時から、恋をしておりました。

 至極真面目で、頑固一徹で、そうして、努力家。思い付きと衝動だけに突き動かされているように、周囲の人からは思われているけれど、本当はとてもしっかりした方で、きっちりと時節の区切りごとに、何かしら目標を、己に課している方。
 そうに違いないと、思いました。信じておりました。
 実際にそのような方なのだと知って、とても嬉しかった。
 私は貴方の中にある真実を、誰にも告げられることなく見抜くことができたのだと、ただ一目で探し当てることができたのだと、そう思うと、とても誇らしかったのです。
 貴方はそれが、すきですきで、たまらないのに違いない。だからいつも自分の居場所を求めて、妥協をせず、追求をし続けて、ここまで辿り着いた。そうして、今の貴方が、在るのでしょう。

 とても真面目な方です。
 その真面目さ故に、色々と損をなさったこともおありでしょう。こだわり故に、苦汁をなめたことも、あるのに違いない。外見と娯楽性を重視するその世界で、貴方のように一途な方は、ひどく生き残り難かったであろうと思います。それでも貴方が困難を乗り越え、今の地位まで上り詰められたのは、貴方の、それにたいする、心からのこだわり、思い入れ、そして何より、貴方自身の純情さ。その一念が、報われたのだと思われます。
 御自分を飾り立てることが、下手でいらっしゃる。だからこそ、内面は真に澄み切った、美しいお志をお持ちの貴方が、あのような悪役に徹しておいでなのでしょう。それはとても、素敵に映ります。他の人がどのように受け取ろうとも、私には、理想です。不言実行、いつか貴方が、それと知らずにほのめかした、その道理です。変に口ばかり達者になって、自分を英雄か何かのように見せたがる輩は、信用なりません。在るべき理想像は、貴方のことです。
 どうか、お体をいたわられますよう。貴方の今の生活は、同じ分野の方からすれば、まさにトップを極めた理想の状態でしょうけれども、私には少々、苛酷に感じられます。お体が資本のことですから、御自分が一番よくおわかりのことと思います。私のような素人に、云われるまでもないでしょう。けれど、それにのめりこむばかりに、いつか基本を忘れないとも限りません。
 どうか、お体を大事になさってください。故障など患われて、貴方が退いてしまうことも私には辛いのですけれど、そこから退かねばならなくなる貴方の苦しみの方が、想像すれば、何にも勝って辛いのです。

 このようなことを、全部残さずお伝えしたかった。貴方を初めて見かけた時から、いつもいつも、お伝えしたかったのです。けれど、言いたいことが多すぎて、伝えたいことが強すぎて、わかっていただきたい私のこの感情が、大きすぎて。結局、いつも一言も、綴れませんでした。
 何から入ればよいのか、わかりませんでした。
 総てを書き送ったところで、読んでいただけるのかも、わからない。もし読んでいただけたとして、この稚拙な文章が、私の本意を伝えきれるかどうか、自信がない。
 そのような逡巡を経て、いつも最後に出てくる言葉は、一つだけ。
 貴方がすきだということ。
 けれどそれだけを書いたのでは、あまりに素ッ気がないし、その言葉、ただ一言のその言葉の裏にある、私の喜び、誇り、迷い、焦り、そして親しみ、そういうものが、ちっとも伝わらないような気がいたしまして。ですからやはり、このように長いお手紙を差し上げるのです。

 貴方の過去のことは、あまり存じておりません。
 それどころか、貴方の現在のことすら、ほとんど存じません。
 こんな状態で、恋、などと言っても、貴方は信じてくださらないでしょう。いいえ、私、貴方がきっとわかってくださると思います。貴方のことを何も存じないけれど、その状態こそ、処女の恋であると思います。相手のことを何も知らず、けれどその人の中に、自分を惹き付けるものを見つけられるというのは、何も理由づけなどされる以前の、最も汚れのない恋ではありませぬか。趣味が、相性が、などと理論づけされるような恋は、まっぴらです。
 私はむしろ、貴方のことをこれ以上、知りたくはありませぬ。
 貴方の昔を、今の暮らしぶりを、本当のお姿を。
 何を知ろうとも、私は乗り越えるでしょう。恋という大義を背負って、どのような汚らしい真実をも、乗り越えていく自信はございます。けれどその挙げ句に、今のこの無垢な恋は、もはや無垢ではなくなりましょう。
 私は私が受け入れたくないどのような事実も、貴方から引き出そうとは思いませぬ。

 私は、自分の直感というものを、信じております。
 貴方がどのような方であろうと、私は私の見い出した貴方を、信じております。もし私の厭うような事実を、貴方が一つでも背負っていたとして、それは貴方の本来の荷ではないのだと、どこかで間違えて背負い込んでしまったものだと、そうして私は貴方を信じ続けることはできますが、その過程でどうしても生まれてしまう欺瞞が、やはりこの恋をねじ伏せてしまうでしょう。
 貴方を信じております。私自身を信じております。ですから、何も知りたくありません。
 強引な論理に聞こえるけれど、私は何も、間違ってはおりませんでしょう?

 恋とは本来、強引なものですわね。そうして理不尽です。理屈が通用しないのは、生まれつきです。

 私、貴方からただ一瞬のぬくもりを引き出す為にならば、一番大切なものを捨てても良いと、本気で思います。ただ一度だけ、貴方の手のひらを、この頬に感じられるのならば。

 その次の瞬間、貴方を忘れ去ってもかまいませぬ。

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