葛原ヶ岡
この下を歩くと、怨霊に憑かれますよ。
冬の桜に魅入られたらば、おしまいです。
ほら、貴方の背中。
もう黒く、影に覆われ始めている。
それは神に敗れた女の未練。
冬の桜に血を振りまいて、幹かきむしり、果てた女の気の結露。
逃げて行きなさい。
振り返らずに、どこまでも走って行きなさい。
雪の中に残る足跡を、私は追って参ります。
貴方が私を振りきれるまで、私は追って参ります。
*
冬の桜の枝の上から、時折古葉が舞い降りる。
風もない朝に、雲間から弱い陽が降りる朝に、見上げた枝から、音もなく。
ぷっつりと枝を離れて、気の段に打たれ、かさかさと下る。
どこかで人が、死んでいくのではあるまいかと、思わず身が震い。
鳥が鳴く。
木々の高い所で、何かが葉を揺らす。
覗かれている。
朝の靄にけぶるこの一角を、何かにじっと見つめられている。
格子の狭間を探り見れば、それは柔らかく暖かな、黄梔子。
流す狩衣。
あぁ
思い出すように、それを見送った。
貴方はまだ、此処にとどまって、おいでなのですね。
悲壮の記憶。首の傷。
石に血の、黒い影。
私は、逢いに参りました。
心にそう呟いて振り向くと、蜘蛛が居た。
細く光る銀の糸を繰り出しながら、蜘蛛の言う事には、
おかえりなさい
それが、歓迎であったか、追放であったかは、読みとれぬ。
つつ、つ、と下りて、目の高さ。
影から一歩、出られるが良い。
格子の影から、柔らかく穏やかな、導きの言。
音にならぬまま、目に見えぬ粒子を押しのけて、私に届く。
太く古木の落とす闇。
影から一歩、出られるが良い。
駄目です、足が、動かない。
私はいつも、影から影へ。
固く冷たい岩の芯を伝い、深く柔らかな地の底を伝い、影を渡ってようやく此処まで。
私は、これを抜けられませぬ。
夜すらも、月が私に、囲いをつける。
魂の牢獄。
貴方と此処で、お別れしたあの朝以来。
貴方はその格子の外へは抜けられぬ。
同じように、私は、影の中に、永遠に。
蜘蛛よ。
その糸をもって、我々を。
たどりつけぬ。
陽の原に佇むあの社には、私は、たどりつくことができぬ。
糸を渡して、細い影を、ただひとすじ。
蜘蛛よ。
これ以上、何を試すことがありましょう。
私たちはもう、袂を分かって、七つの区切り。
それなのにまだ、叶わないとは。
蜘蛛よ。
酷い、お別れ。
私は此を繰り返してきた。
この先も、繰り返さねばならぬのか。
黄梔子。
このまま此処で、待ち続けましょうか。
それともいっそ誓いを破り、二度とお逢いできないまでも、ただ一度の逢瀬を奪って、堕ち逝きますか。
素敵。
それも、素敵ね。
ただ一度の逢瀬を、神の御手から奪っていきましょう。
細く長く、すらとのびて、幾度も私の髪を梳かれたその指。
青く白く透いたその指で、蜘蛛から影を、引き出されて。
蜘蛛から橋を、引き出されて。
私を貴方へ渡してください。
私たちは、実のない約束事などに、惑わされずに参りましょう。
天の二方のように、待ち続ける悲恋などは、望みますまい。
一歳に一度の逢瀬、それを永遠に続けるなどは、まっぴらです。
私たちは、それにもう、一歳どころでは、ございませんね。
袂を分かって、七つの区切り。
樹々の生えるをただ待ち続け、少しずつ、回り道をしながらも、私の墓碑から貴方の社へと、細く枝が辿るのを待ちわびて、影が渡るのを待ちわびて、ようやくここまで。
ここまで堪えて忍んで参りましたが、私はもう、そして貴方も、限界に達してはおりませぬか。
影から一歩
影から影へ、渡りを待つ気は、もうありません。
蜘蛛を捕らえましょう。
待つことはもう、止めにしましょう。
蜘蛛を捕らえて、腹を割り、糸を引き出して、橋を渡しましょう。
神に逆らいましょう。
呪縛を、完成させましょう。
ただ一度の逢瀬を、この腕に、私は天から奪い取ります。
貴方の袖に包まれて、融けて消えても、本望です。あたたかな、流す狩衣。黄梔子。
いまいちど。
なされよ
影の中では、化性の力を約束された。
闇から浮上して、地に乗り上がる。
手を延ばし、冬の桜にからみつき、上へ、上へと滑り込み、
お好きに
それを捕らえた。
*
この下を歩くと、怨霊に憑かれます。
昔、女があったということ。
国に殺された恋人の後を追い、墓を暴いて骸の上で、己が首筋掻き切って。
神は彼らに試練をかけた。
女を墓に、男を社に封じ込め、陽の光に肌を曝そうものならば、瞬時に融けて崩れて、砂となれ。
百年待って、千年待って、其れから七つの秋の後、若い樹々が落とす枝葉の影をつたって、ついにこの桜の下へ。
人の足ならたったの数歩、たった数歩のこの距離が、もう女には待ち切れなかった。
見張りの蜘蛛を捕らえて、その糸を社に渡し、影を自ら作らんと。
その先に二度と男に会えまいと、ただ一度、一度の恋を掴もうと。
試練を破れば、何が起きるかは知り得ていたはず。
結果、女は、蜘蛛を手にした瞬間に、この樹の中に取り込まれてしまいました。
社の中で一部始終を見ていた男は、消え去ることもできずに、そのまま。
時折、格子の隅に、狩衣の裾が揺れるのを見たと、いう人も居ます。
錯覚でしょうけれど。
春になると、この桜は毎年必ず、美しく花をつけます。
そのはなびらが、決して西の風にはのらず、東の風にのみはらはら散って、あの社の前に流れるのです。
社の前に堕ちた花片に触れようものなら、その人は決して恋に報われぬそう。
さて、今は雪。
この雪に足をとられずに、貴方はどこまで、逃げ切れるでしょう。
| 2000 / オハナシ |