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叫哭


 違う。そんなことは一つとして、私が言いたいことではありません。
 私は一度も、それに関して貴女を怨んだことなどありませんでした。
 いいえ、それが私の心に深く深く刻まれた傷だなどと、とんでもない。
 貴女は何もわかっておりません。わかってほしいなどと、期待する気すら、もう、おこりません。
 私は貴女を軽蔑します。
 子供の頃からずっと、私は、まるで神のように貴女を崇め奉って、尊敬してきた。
 貴女の意見は唯一絶体のものとして、私の常識の層の、一番上に据えられていた。
 黒い物も、貴女が白といえば、そうなった。極端な話ですが、本当に、そうだったのです。貴女が私に持つ影響力は、それほどに強大だったのです。
 そして私は昔から、今ですら、貴女を畏れています。尊敬の念を持って、貴女を畏れているのです。ただ一つ、これと決めて打ち込んだものすら、貴女に滅茶苦茶に否定されて、自分には到底才能が無いのだと、諦めてしまった。
 けれど私は、諦めても、それを捨てはしませんでした。捨てることなど無理だったのです。確かに私には、才能など無いのでしょう。それは貴女の言う通りだったかもしれない。けれど、捨てることはできません。
 私は、これが、すきなのです。
 これは私の、いのちなのです。

 私は文章を捨てません。
 誰に認めてもらえなくとも、認められるほどのものがなくとも。
 私は文章を辞めません。
 私は、書かなければ、生きてはいられないのです。
 私は言葉に、どうしようもないほど、恋をしているのです。

 母、という字は、私には、強すぎます。

 貴女は、何故謝るのでしょう。
 私は貴女を、怨んだことなどありません。
 私はいつも貴女を、尊敬してきました。
 貴女は強く、嘘がなく、何事も恐れない、頭の良い女性です。
 私は貴女を母に持ったことを、心から誇りに思います。

 けれど、愛しているかと問われると、

 さぁ。と、しか。

   *

 私は人を、愛せない人間に、なりました。
 私は、人が怖いのです。
 周囲の人々は皆、家庭を持って、幸せになってゆく。
 時折私は、自分が彼らとは、全く違う生き物のような気がいたします。
 あの人達は、幸せになれる生き物。
 私はまるで、自分がこの世にたったひとりぼっちの、死ぬまでひとりぼっちの、小さなとかげのような気になるのです。怯えたように這い蹲って、ひからびて死んでゆく、惨めで哀れな生き物です。誰にも愛されることがなく、誰をも愛することがなく、死骸は、埃の積もった路地裏に。
 怖ろしい思考です。侘びしさに、涙が出ます。
 けれど仕方がない。
 それが私という生き物ならば。

 私が人を愛せない理由。それを、貴女の結婚に求めるのは、こじつけです。押しつけです。責任の転嫁です。けれど私は、ずっと昔から、そう、たぶん初めて恋をした時から、それを貴女のせいにしてきました。
 結婚は破綻するもの。
 人を愛し続けるなど、無理な話。
 父の出て行った日の事など、覚えてはいません。ただ、私と兄の目の前で口争っている貴女達の姿は、いつまでも、いつまでも忘れられない。忘れることができない。思い出しても、もうどのような感傷も湧かないほど、何度も、何度も、何度も。
 もう涙も出ないと思っていたらば、意外にも、文字が霞みました。

 やめましょう。

 私は人を愛せません。私は家庭というものに、夢など抱くような人間ではありません。
 ある夜、左目の周囲に痣を作って帰宅して、私達を抱きしめて泣いた貴女の姿。私は怖かった。どうして貴女が泣いているのか、そんなことはどうでもよく、貴女が泣いているという事実が、怖かったのです。涙が出るのは、子供だけだと思っていたから。
 私は未だに、貴女の泣いていた理由を知りません。怖ろしくて、尋ねることも、できません。歳を経て、今ではその理由の方が怖ろしいなど、おかしな話ですけれど。

 まだ真っ白な、柔らかな、何の歪みもない球体に、深く彫りつけられた最初の真実が、「愛」への不信でした。それは、いいえ、やはり、貴女のせいではなかったのです。
 もしも私が、もっと素直に成長して、このように無駄に己を蔑んで、それによりかえって価値を高めて見せようとする、下卑た人間でなかったら、私はそれに打ち勝っていたでしょう。
 私が悪いのです。貴女は、堂々としていればよい。私に謝る必要など、ありません。

   *

 私は父を、憎んでいます。憎む、と言っては、言い過ぎになるかもしれません。けれど、愛してはいない事は、確かです。信用などと、とんでもない。
 貴女はそのように、父が貴女と同じほど、私たちを愛していると仰います。そうして、実際その通りかもしれません。けれど、あの人が私と兄を愛そうと、鼻にもかけまいと、それは私にとって問題ではないのです。
 私はあの人を信用などしていません。人間として、あの人がどれほどのものであるかは存じませんが、父親として、一度でも、あの人が一度でも、私に助言を与えてくださいましたでしょうか。私が約束を忘れた振りをして、友人と逃げ出してしまった時も、急に学校に行かなくなった時も、面と向かって叱ることもなく、影で母や兄に言っていらっしゃった事。存じています。
 いいえ、否、否、違うのです、本当は、私はあの人に会いに行くのを厭がって、それだからあの人も、滅多に顔を見せない私の扱いに戸惑い、遠慮して叱ることもできず、父親らしいことを本当はしたくとも、どうしてよいかわからず、私はそれにますます苛立って、自分からきっかけを作ることもできず、そうして挙げ句の果てに、憎んでいるなどと言い出して。私には、そんなことを言う資格もないのです。

 わかっているのです。貴女も、あの人も、私と兄を愛してくださっていること。けれど私は、兄と比べてあまりにも破天荒で、気まぐれで、出来が悪くて、あなた方のどちらにも、まともに顔向けが、できません。

 私は人を愛せません。私には優しさが、ありません。私は生き物を傷つけます。私は自惚れてばかりです。私はそのくせ、人に愛されたくて、仕方がないのです。自分がどのように厭な人間かをわかっていて、それでもなお、人に愛されたくて、ああ、何と馬鹿らしい、浅ましい思考なのでしょう。人間として、最低の欲求ではないでしょうか。性的なものなど要りません。私はただ、この頬に、人のぬくもりを感じたい。ただ純粋な、安らぎが欲しいのです。

 安らぎを、くれたと見えた人には、偽りがありました。

 その人の衣服の下に隠し持った刃に気付いた時、私は今度こそ本当に、人を信じないことを決めたのです。それ以来私は、ただひたすら、言葉に打ち込んで。叩きつけられ、踏みにじられた己が心の破片を、一つ一つ、字にのせて、組み立て直すことに没頭して来た。そうして見つけた真実は、無慈悲な風を迎え入れます。いつか、私は知ることができるでしょうか。私の今掲げている答えは、虚構に過ぎぬという事を。

 私は自分を憎んでいます。一度でも、貴女が言うほど、私は利口ではありませんでした。私は醜い心と、死んだ瞳を持つ娘です。もしそれを否定するのなら、それは貴女の欲目です。私は、貴女が私に費やした全てのものを、無駄にして、使い流して、少しの咎も感じていない。そうして徒に、日々を重ねて生きています。私はもう嫌気がさしました。かと言って、立ち上がる気力も持たず、堕ちていく勇気も持たず。
 私は、駄目なのです。人と衝突するのが怖ろしく、迎合のみして生きているのです。人に誘われれば、断る口実をまず考えます。同意を求められれば、聞き返すこともなく頷きます。私は、とにかく、駄目なのです。私に至る全ての血から、マイナスの箇所ばかり選び抜いて、そうして出来上がったのが、私という人間です。御免なさい。
 御免なさい。私は、努力すら、しませんでした。

 私は子供です。貴女に、ありがとう、この一言すら伝えられない。
 父のことを、これからも、憎んでいると言い続けるでしょう。
 男の人は、信用なりません。いつも私を、置いて行ってしまう。
 女の人は、嘘吐きです。思い込みと勘違いで、何故か符合を合わせて、生きているのです。

   *

 ただ一つ、私が胸を張って言えることは、これだけです。

 私は、言葉を、愛しています。

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