2000 / オハナシ | トップページへ戻る

七宵

第六夜

 あの月が海に沈む前に、この幕を閉じようと思いました。
 それまでにあの人が現れなかったなら、これは、これもまた、「仕方のないこと」として、葬ろうと。
 今宵こそ、夜明けがこの浜辺に訪れるような気がいたします。
 それがたとえ、永遠の忘却を伴うものだとしても、私にはもう嘆く理由がありませぬ。
 この絹が輝いていたのが、射すように冷たい月光の故であったか、それとも光の流れる陽の照射の故であったのか、私は永遠に、思い出すことはできませぬ。

 銀の森で私は生涯の恋人に出逢い、けれどその人にとって、私は取るに足らない者であったようです。
 これほどに悲しく、また不条理に思えることがありましょうか。
 私ばかりが汲んでも汲んでも尽きることのない想いに身をゆだね、その流れは、溢れ出す端からあの人の中へと、ただ消えてゆくだけなのです。太陽に、ほんの一滴の水を垂らしてみたかの如く、瞬時に蒸発して消え去る存在。それがあの人にとっての、私の恋の意義だったのです。
 けれど私は、諦めるということができなかった。
 いいえ、ただ、愚かだったのでしょう。
 そのように無駄な流れなど、できる筈がないと思って。
 必ずいつか、私の落とす水滴が、あの太陽にさえ沁み入る日がくると、そう信じてやまなかった。

 今ではようやく、そのような日の永遠に訪れぬことも、理解できました。

 ですから今宵を最後とし、私はこの幕を閉じようと思うのです。
 いざなうような波がこの疲れた足を洗い、私の恋は徐々に上塗りをされてゆく。
 一度染め上げられてしまった絹を、またもとのまっさらな状態に戻すなど、不可能なこと。違う染料で染め直すしかないのだと、ああ、それは何と惨めなことでございましょう。

 あの人にお逢いした時分、私の心は既に純白とは云い難いほどに、無数の色でまだらに染まっておりました。けれどそれを、生地からすべて瞬時のうちに、あの人は輝く絹へと変えさせた。ただ一瞥をくれただけで、充分でした。光を与えれば、角度によってそれは薄い大気の色とも、開き切らぬ花片の淡い色とも受け取れる。風を受けてこの身を包み込むその滑らかな繊維の表に肌を寄せ、私はどれほど幸せだったか知れませぬ。

 その絹が美しさとはうらはらに、触れる度この肌を灼いていく苦しみすら、厭わなかった。

 そうして私はぼろぼろになりました。残ったものは、この心だけ。外壁をすべて灼き払われて、私は裸同然に、あまりにも小さな、この心だけ。そのような奪い方をなされずとも、私は元より、これを貴方に差し上げるつもりでおりましたのに。

 あの月が沈む前に、私はこの幕を閉じるつもりです。
 この絹を脱ぎ去るか、己が心を灼き払うか。
 もしも貴方が、おいでになったなら。

第一夜

 暗い。
 前も後ろも、被さるような闇に覆われている。
 黒い。
 空気がことごとく胞子に侵されて、息すらおぼつかない。

 雷は、恋に似ていた。
 遠くで二回、そうして、気が付けば真上。
 遠雷に気づけるのならまだ良いけれど、唐突に打たれては、たまらない。
 遠くで二回。
 おや、と思えば、次は真上。
 ばりばりと、地上に圧し溜まる気を割るように、気が付けば、真上。
 雷は恋愛と似ている。

第四夜

 厭で厭でたまらない。
 何が厭かと問われても、理由に値する何かなどは存在しない。
 向かい合うその人の唇から、ひとすじの血の流れ。
 何もかも、厭でたまらなかった。
 床についた赤黒い足跡。
 どうして今日に限って、誰もが血を流すのだろう。

 ここで泣いたらばいけない。
 偽善。
 私はその時、誰かを傷つけたくて仕方がなかった。
 関係の無い人を巻き込むほどに、切羽詰まってはいなかった。
 この人を殺したい。
 目の前のこの人を、叩いて叩いて、骨と皮ばかりのこのくびを、ぎりりと、絞めて。
 そんなことを、泣きながら考えている事実が厭で厭でたまらなく、そうしてふと、ある人の事を思う。
 人を傷つける前に、殺されたい。
 あの人に殺されたいと、何度目かに、切に願った。
 愛されたいとは、思わなかった。
 その時の私に、愛はただ軽く当てのない、無色透明のぼんやりとした気体でしかなかったようだ。
 けれど憎悪は、愛よりもはるかに重く、そうしておどろおどろと黒く濁って、形を成してそこに渦巻いていた。
 私は形のあるものを欲した。
 私は幸福を信じなかった。
 私はただ、一日を生きることだけで精一杯の、不幸の奈落に呑まれてみたかった。

 決して愛されることのない、絶対零度。
 ただ一つ真実となる、心の永久凍土。

 私を愛するよりも、私を憎むほうが、よほど貴方には容易でない気がいたします。
 博愛は、その気になれば易しいことでしょう。
 けれど理由無しに人を憎むことは、難しくは、ありませぬか。
 今の私には、憎悪が人の持つ唯一絶対の核となる感情であるようにしか、思えないのです。

 まるで蛇でも見るかのように、蔑んだ視線を、私の上にくださいまし。

 どちらが罰で、どちらが快楽か。

第二夜

 十八の年に、彼女は此の世で最も美しいものを見た。
 十八の夏に、彼女は人の生の、ただひたすら待ちぼうけをくうだけの真理に気付く。
 十八の秋。彼女はもう二度と、自分が恋をできないことを悟った。

 決して触れ得ぬ神聖なものを欲したのだ。
 恋愛よりもはるかに高尚な、それは純真無垢な恋慕の感情である。
 彼女とその青年は、昔ひとつの星から生まれ、割れて砕けて別離となった。
 そして数億年の後に、宇宙の果てで同胞を見いだした悦び。

 彼女は秘かにその人を待ち続けることを決意する。
 何度目かに生まれ変わり、ようやく、この地で彼を見つけた。
 この一巡りでは、見つけただけでもう充分だ。
 次の一巡りで、彼女はその人とすれ違い、声をかけあって、そこで終わる。
 その次の一巡りでは顔も見ずに。
 彼女には、いつまででも待ち続ける勇気があった。
 いつか必ずそれが訪れることを知っていた。
 どれほど遠くとも、それは訪れる。

第七夜

 ここは、何処。
 私は、何をしているのだろう。
 おちてくる。
 否、もう、おちている。
 貫き、貫き、貫き通せ。瞳に色が出ぬうちに。
 せめて紅く燃えよ。せめて蒼く静まれ。

 お経。死者の鎮魂。
 あの人は、何処。
 あの人とは、誰。
 なぜ私は一人なの。
 誰を呼んでいる。誰かを呼んでいる。誰かを求めている。
 胸が痛い。胸が苦しい。頭の中に、張りつめた一本の細い糸。
 糸。
 足下の光。

 純粋な朝の中で過去を想い、汚れる前の一日をそこで止め得ることができたなら。
 

第五夜

 一段の高さから、うら若い少女が、人妻に向かって激しく叱咤するのを聴いた。

 惚れた男くらい自分で守れ。
 安全地帯から怒鳴り立てて、何が援護だ。何が夫婦だ。
 惚れた男も守れないで、何が、愛だ。
 私はその男まで助ける暇は無い。自分の男は自分で救え。苦しんでいる様を、よくただ見逃していられたものだ。
 早く二人を引き離して。
 金切り声で、そう叫ぶだけ。
 他人に頼るな。自分の腕で始末をつけろ。

 向き直り、今度は足下に倒れ伏している男に口上。

 二度となさるな。
 今度この人に手を出したら、私は貴方を殺します。
 それはもう間違いなく、確実に。
 貴方の血など私は恐れない。
 貴方がこの人にどれほど卑劣な扱いを受けようと、そうしてその立場を失ったところで、私はもう構わない。貴方はこの人を卑怯だ卑怯だと言い続けて、その様は何だ。
 奇襲。反則。自身を同じところへ落として、この人を罵倒するだけの価値が貴方にはあるか。
 二度とこの人に痛みを味わわせたなら、蚊にさされたほどの些細な痛みでも感じさせたなら、私は間違いなく貴方を伐ってやる。その時はもう一寸の狂いもなく、この凶器を、今度はその首筋めがけて突き立てる。そうして貴方が転げ回って苦しむ様を見て、唾をはきかけ、嘲笑し、愚弄し、蹴り飛ばして、恥辱の限りを味わわせ、苦痛の極致へ追いやって、それから、それから。
 そんな話はどうでも良い。
 二度とするな。
 貴方がこの人を憎んでいるその数千倍、私の憎悪は増している。
 貴方の憎悪がただ火口から吹き上がるだけの高さしかないならば、私の憎悪には、火口の下に沸き立つ愛憎の深さがあるのだ。私は今この瞬間も、貴方の四肢をひきちぎりたいほど。
 貴方はこの人の血を流した。
 貴方はこの人の骨を震動させた。
 貴方はこの人を呻かせ、脅かし、いいえ、決してこの人が貴方のような男の為に脅かされなどするものか、けれどこの人は貴方の為に傷を負い、痛みを味わい、この傷を見ろ。貴方が殴りつけて割れたこの額を見るがいい。
 私は貴方を許さない。
 この先、まかり間違って貴方とこの人が和解などする日が来ようとも、私だけは貴方を決して許さない。この人の痛みを、血の色を、この傷を、私だけは忘れない。
 二度とこの人に手を出すな。
 否、殴りたければ殴れば良い。私は待つことを欲しない。もうすぐにでも、貴方という不穏因子をこの人の生から抹消してやりたい。
 さあ、殴りたければ、殴れば良い。
 そうして私に手をかけさせろ。

 これもまた、愛の一つの方向性。

第三夜

 あのひとは、本当に好い娘さんでした。
 それなのにあんな事になってしまったのは、僕がいけなかったのです。僕らみんなが、いけなかったのです。僕たちは気が付いていた。彼を止めるべきでした。だけど彼女は知っているのだと思って。そうして、誰もがいつか、他の奴が言い出すだろうと思って、なんとなく適当に言葉を濁して、そうしているうちに、事態はいつのまにか、のっぴきならないところまで進行してしまっていたのです。
 僕らが悪かったのです。ほんとうに。
 相手の男性には、家族がありました。優しい奥様と、父親に似た金髪の、女児。
 彼女は、知らなかったのです。それについては、決して邪推などしてはいけません。する余地がありません。ほんとうに素直ないい子でした。知らなかったのです。
 けれども無知は、時として、嘘よりも重く罰を与えるもののようでした。
 男性は、彼は、そして彼もやはり、悪い人ではありませんでした。初めの一回は、酒の上での、過ち。その人はその時は、戯れのつもりでした。彼女も承知の上だと、それがその人の、最大の誤算だったのでしょう。彼女は何も知らず、夜が更ける前に抜け出した。男は敷布の下に、夕べ押し込んだ指輪を探す。

 二人とも、酔ってなどいませんでした。
 
 そこで彼は初めて事態を掌握し、それから二度と、あの人に逢おうとはしなかった。
 後腐れのないように、などと、口の悪い人は言いますが、僕にはわかりました。僕はもう何年も昔から彼を知っていて、もとから無口でおとなしい人ではありましたが、その当時は本当に、側に僕がいるのも気付かない様子で、たまに会ってもただぼうとして、机の上で手を組んだままその手をじっと見つめ、一言も口をきかず、そうして日が暮れるまで同じ店で二人、何をするでもなく紅茶の椀を前に座りこみ、それじゃそろそろ、と僕が立ち上がると、そこで初めて、導かれるようにすぅと顎を持ち上げ、淋しそうに微笑んで、あの人によろしく、そういう声が、どうしようもなく切なく、僕の耳には響いたものです。
 あれほど悲しげで淋しげで、憂いに溢れて、けれどどこかひどく高潔な笑い顔を、僕はみたことがありませんでした。
 彼女は何も知らぬままに数日を過ごし、そして人づてに真実を知り、かと言って泣きもせず、悔いもせず、私はあの人を信じていた、あの人は私を傷つけまいと真実を隠した、だからもうそれでいい、忘れたいと言って。考えてみれば彼女には、ほんとうに大切な男性が、他にいたのですね。だからと言って、責めるわけではありません。あのひとは、いい子でした。所作のひとつひとつが、いちいち可愛らしくて、媚びている風など全然なく、そうして全ての責任を一人でこっそり背負い込もうとする、そんな人でした。
 誰も悪くなくとも、事態は勝手に悪い方へと進行していくものですね。そういう時こそ、ほんとうに周囲の人間は、無力で哀しいものです。僕は二人の有り様を見つめながら、本当に哀しかった。

 彼は、どうも、恋をしたようでした。
 奥さんと別れて、何もそこまでという周囲の止めるのを聴かず、独りになって、戻ることのない人を待っています。そうして今日も、哀しげに、あの高貴の顔でもって、僕に微笑むのです。たまらない。
 彼女は、もうこの街にいません。あの人は、帰りました。そうしてあの人も、ほんとうにすきな男性と、二度と逢わない決心をして、ここを去ったのです。その男性というのは、彼の友人でした。違います、まさか僕じゃありません。ほらあの、背の高い、短髪の。見えますか、褐色の髪をした男。ひどい男です。あれほどいい娘に想われるほどの、そんな価値がある人間じゃない。美しいのは、見た目だけです。
 あの男が、僕の大切な友人の身を灼くような辛い恋と、その恋の対象の娘の思慕の情までも、当然のようにその身に吸収して、へどのように吐き捨てているのだと思うと、寒気がして、僕はたまらないのです。
 こんなに哀しいことが、他にありますか?なぜ、あの人々は生きていられるのでしょう。己の中にある恋慕を、すべて出して、そそいで、捧げ尽くして、そのぶんがどこかから補充されるのですか?なぜ、恋の一方通行などが、当然のようにできあがるのですか。
 ああ、たぶん、いや、僕もわかってはいるのです。
 それは補充されているのでしょう。
 あの人達の知り得ぬ誰かが、影でまた、同じほど深く、辛く、恋をしているということです。

   *

 恋の七夜がありました。
 どの宵が、貴方のお気に召しましょう。
 聖諦。無知。自棄。輪廻。残夢。狂気。転じて、違算。

 最期にはいつも、ひとりきり。

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