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逆り【さかり】

 一・愛

 その痩せこけた首に、細く赤いひとすじの痕を見つけた時、咄嗟に私は自分に言い聞かせたのです。

 これは細紐の痕ではないのだと。
 私が絞めた、その痕ではない。

 何故でしょう。
 その時分、まだあの人は死んではおらず、その赤い痣が酸素のカニューラの痕であることくらい、私は当たり前のように知っておりましたのに。

 もしかして私は、あの人をいつも殺したい、その願望を胸に抱いていたのでしょうか。
 ええ。いつも、早く死ねばよいのだと、そればかり思っておりました。

 早くあの人を殺して。
 早く此処から連れていって。

 そればかり。

 わたくし、あの人を憎んでおりました。
 あの人の上に、どれほど私が時間を費やしても、途方もない時間を費やしても、あの人は笑いもしない。
 いいえ、笑ってほしかったわけではありません。
 私が欲しかったのは、謝意だとか、そのようにありふれた決まりきった世辞ではなく、ただ、解放。
 そればかりです。

 私、あの人を叩いてしまいました。
 こんな事を言ったらば、あなたは私を非道い人間だとお思いになるでしょうけど。
 だけど、私は手を上げてしまった。
 一度や二度ではありません。何度も何度も。
 そうしてその後、おそろしい心地に襲われるのです。いつもそうなります。恥ずかしい、いえ、違う。後悔。違うのです。厭だ、厭で厭でたまらない、もう私には我慢ができない、私はこの人が厭だ。

 例えようのない、無様。

 その人の肌が紫色に変わろうと、私はその人にすまないと思ったことはありません。
 私はただ、己が厭で厭でたまらないのです。身体中を、細い髪の毛でちくちくと刺されるような気分になって、掻きむしらずにはいられないのです。
 想像できましょうか。
 夏の夜に。
 死んだような瞳の痩せこけたものを相手に、一人で嗚咽する様。
 鎖骨の辺りに、どうしようもない、アレルギーのような感触。
 ちくちくと、蝕むのです。肌を蝕むのです。

 いいえ、それは決して、良心の呵責などというなまやさしいものではありません。解放を望み、張り裂けんばかりの皮膚の膨張。
 空気を入れすぎた風船の面。そうです、あのような。

 私はいつも心の中で、

 早く死ねばよい

 そればかり。

 ですから私は、その人の喉元に赤い細いその痣を発見した時、無意識のうちに、これは私が絞めた痕ではないなどと。何故そんな事を考えたのでしょう。いいえ、考える、というよりも本当に、無意識でした。その文字の羅列が心に生まれ、脳に浮上してそれを知覚した時の私のおののき。

 あれは酸素のカニューラの痕でございましょう。
 そんなことは、わかっていたのに。
 徒に、そんな事を咄嗟に連想したのでしょうか。
 自分でもわかりません。

 私、あの人を、まるで汚いものでも扱うように。

   *

 二・母

 蛾が嫌いだった。
 理由などない。
 夏の夜、電灯の明るさにつられて部屋に飛び込んでくるのは厄介であるし、そのたびに鱗粉を撒き散らしていくのも、ますます厄介である。しまい込んだ洋服の繊維の間に、さなぎの残骸を発見した時も厄介だと思った。

 けれどそれだけならば、あのおぞましい嫌悪までには至らない。
 少女は白い壁の面にぴたりと張り付いている蛾を発見すると、まるで親の仇でも見たかの如く、執拗にそれを追いはたいた。自分でも怖ろしいほどの憎悪を持って、その不気味な模様を掲げた羽根を叩きちぎった。

 何故そこまで残酷にせねばならぬのか、己でもわかりかねていた。

 ある夕刻、ふと庭に出て、怖ろしいものを見た。
 三年目に咲いた百合の、闇に透けるような白い花にしがみついている虫の腹。
 ぷっくりと膨れて、虫にはあるまじき、それはいやらしいほどの肉感だった。

 おぞましさを感じたのはその瞬間である。

 同時に思う。
 あの腹を割いたらば、中からは小さな蛾がわらわらと出てくるのであろうか。
 少女にはどうしても、そこに詰まっているものが、ありふれた体内器官とは思えなかった。
 そのおぞましさ。
 羽ばたき続ける羽根の、狭間からきらきらと輝いて、振りまかれるその鱗粉。
 浮遊し続ける重量感のある腹部を、いやらしいものでものぞき見るかのように眺めて、少女はふと、

  仔が

 無意識の裡に頬をつたった。
 そうして、その蛾の腹を、中身もろともに、潰してやりたいと。

 己に潜む残虐性の頂を、更に上から見下ろしているような、ひどく心地の良い気分。
 汚れのない肌で、その細い指をもってして、少女は虫の羽根を挟みつけ、持ち上がるように蠢く腹を、強く、けれど静かに、慎重に、壊していった。

 いやらしさとおぞましさに歪むかと思えた顔に、笑みが浮かぶ。
 まるで恋しい男に再会したかのように、それは輝いて見えた。

 無知と純真の生む怖ろしさ。

   *

 三・破壊

 恋をしたかと思いました。
 私には、わからない事が多すぎます。他の人達には、全てわかっているような気がいたします。
 本当にそうなのでしょうか。
 知りもしないことを、理解したと思うのは、間違いですか。

 私が求めているのは、世間一般の事実ではないのです。ただ私は、貴方の私に与える真実が欲しい。
 それが貴方にとって偽りであろうと、貴方が私に、真実として与える言葉が欲しいのです。

 私は風なき凪の海に浮かぶ、一艘の小舟のようなもの。
 導く波を待つままに、水面の照り返す光に目を貫かれました。
 どうか私を、貴方の気の赴くままに、誘い出してください。

 どうか気まぐれに。

 糸で引くように波の上を手繰り寄せてください。貴方へとひとすじに。
 そうと息を吹いて私を遥かな海へと遠ざけてください。二度と逢えぬほど。
 激情に駆られるまま、底へと深く沈めてください。生涯の憎しみをもってして。

 貴方にならば、構いはいたしますまい。
 どのような処へ導かれようと、私はそれを嬉しく思います。
 想うだけで、こうして待っている時間すらも、心地よいのです。

 いいえ、むしろ私は、憎まれてみたい。
 これ以上はないほどに凶暴に、貴方にこの命を奪って頂きたい。
 痛みは人の堪え得ぬほどに、強く、深く、鋭く。
 流れ出す血は、海をどこまでも染めてしまうほど、濃く、紅く。
 貴方は憤り、荒れ狂い、私をその細胞の一つまで許せぬほどに、熱く憎しんで。
 これまでに誰に対しても為し得なかったほどに、強く激しく私一人を怨んでください。
 私のこの小さく愚かな存在自体が、貴方の生を脅かしてやまないように、ほんの僅かな欠片すらも残らぬほどに、私をその手で消し去ってください。

 ああ、どうかそうしてください。
 私は恋しさに狂いそうに、抗うすべなど微塵も持たず、横たわってお待ちもうしましょう。

 全霊をかけて愛する人に、また全霊をかけて憎まれ厭われ、骨も残らぬほどに破壊されることの、この狂おしさ。
 貴方の指がこの喉に深く食い込む、その様を思い浮かべただけで私は、これまでに味わったことのない幸福に浸される思いがいたします。貴方がまるで何かに憑かれたように、右手に光る何物かを携えて、私の首筋を強くつかみ、振り下ろし、なぎ払い、その頬に返り血を浴び、その血がやがて汗と混じって、息を為さぬ私の上に、ひとしずく、また、ひとしずく。

  殺さなければならない。

  顔が憎い。
  声が憎い。
  肌が憎い。

  そして何よりも、存在が我慢できぬ。
  これを抹消しなければ。
  これが存在する限り、幸せなどめぐり得ぬ。

  これを殺さなければならない。

 譫言のようにそう繰り返し繰り返し、私の身体から全ての血が流れ尽きるまで延々と。
 貴方に刻まれて行く様。
 それを考えただけで、思わず震えが出るほどに、私は嬉しくてたまらない。
 貴方のその指で、この上もないほどの憎悪をもってして、私の身体を壊しゆく。私のそれまでに綴った生の全てが、貴方の掌中に返るのです。

 私はいつも、幸せが怖ろしくてなりませんでした。
 何をしようと、誰と居ようと、心から人の感じ得る幸福などというものを、味わったことはありませんでした。いつもその次に巡る何か怖ろしいものに捕らわれていた。けれど今は、どうでしょう。貴方に激しく荒々しく、私の時を断ち切られること、そのことを想うだけで、私の心には蜜のような歓喜が満ちるのです。

 ああ、私には、貴方が恋しくてたまりませぬ。

 憎んでください。
 その憎悪の炎が、貴方自身すらも焼き尽くしかねないほど、強く高く、全霊をこめて私のことを。

 刃物で肉を裂き、骨を断ち。
 全身に返り血を浴びて。
 貴方の身体で、貴方の一つ一つの筋をもってして、私をばらばらに解きほぐしてください。
 形も成さなくなったなら、底に溜まった血ももろともに、破片を海へと流してください。

 ああ、私は貴方が恋しくて、どうにかなってしまいそうなほど。

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