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fair / おてんき

 思わずひっくりかえりたくなるような良い陽気だった。
 川がさらさら流れていた。
 小さな魚がさざ波のように、体に光を走らせて泳いだ。
 川沿いの土手に座り込んだ私たちの隣には、いつの間にか知らない人が腰を落として、それでも他人に対して警戒心を抱く必要のないほどに、穏やかな午後だった。
 意識し始めたらうるさく感じるかもしれないくらい、空では雀がさえずっていた。

  あの人はとても立派な鼻を持っていてね。

 おばあちゃんはそう語り出した。
 お天気だった。

  あの人は立派な鼻を持っていたよ。
  無駄に高くない。人並みに低くもない。決して主張しないのに存在感のある、ギリシャ神話の胸像のような、美しく筋の通った鼻だった。
  あの人はいつも首を五度うつむけて、男の人なのに、男の人だからこそかしらねえ、とてもきれいな膚をしていて、こう言っては喩えが悪いけれども、まるで、まるでね、

  屍蝋のようだったよ。

 おばあちゃんは言った。

 シロウ、ってなに?

 問い返した私に、歯の落ちた口を開けてにんまりと笑った。
 お天気だった。空は抜けるように青かった。

  あの人の膚は屍蝋のようで、あの人の鼻は胸像のようだった。あの人はある日、私が鴨を見に川へ来たらば、いつの間にか私の隣に座り込んでいたのよ。
  そう、今のあんたの隣にいる、まるでその子のようだったよ。

 私は私の隣にいつの間にか落ち着いていた誰かと顔を見合わせた。その人はそれまで空の雀を見ていたけれど、聞くともなしに私たちの話も聞いていたようで、自分が話題にされたらば、照れくさそうに少し笑った。

 雀が目の前の草っぱらに降り立った。

  その人はね、

 おばあちゃんはまた話し出す。

  その人はね、その半年前に川で溺れた私の許婚にそっくりだったよ。ほんとうに、見ただけでわかる、その髪の細さだとか、眸にしても色素の薄さとか、なんだかいつも寂しそうな目元とか。
  あんまり彼にそっくりだったんで、私は思わず、半年前に目の前の川に沈んだはずの許婚がね、浮かばれないまま愚痴でも吐きに、出てきたんではないかと、一瞬思ってね。
  きっと、青い顔していたのだろうね。がくがく、震えていたのかもしれないねえ。
  だけどその人、私のことを見て、笑ったんだよ、とてもひっそり、見逃してしまうくらいのかすかな顔で、笑ったんだよ。哀しそうに。
  そうしたら、なんだか不思議だったけど、私はやっと赦されたような気分になって、許婚が溺れて死んでからきっとそのとき、初めてだろうね、赤子のように泣いたんだ。

 おばあちゃんのしわしわの頬が、そのときもっとしわしわになった。しわとしわの間から見えるおばあちゃんの眼は、ずぅっと奥に引っ込んでしまった。

  その人は、死んだ許婚の双子の弟だったんだってね、ずいぶん後になってから、彼のお母さんに聞いたんだよ。
  生まれたときに、へその緒がその子の首と、許婚の腕に巻き付いて、その子はついに助からなかったって、ずいぶん後になってから、聞かされて。

  私を恨んで出てきてみたら、私があんまり青くなったんで、かえって笑って、慰める羽目になったのだかね、優しい穏やかな人たちだったよ。
  私を、恨んで、当然なのに。
  腕の利かないあの人が厭で、橋から突き落としたのは私だったのに。
  せっかく助かった兄までが私のせいで、死んでしまって、悔しくて恨み言の一つも言いたかったんだろうにね。
  それから毎年、逢いに来てくれたけど、今年もやっぱり、来てくれたんだね。

 そう言って嬉しそうにおばあちゃんは、私の隣の人を仰いだ。
 鼻の形の整った、髪も眸も明るい色をした、シロウのような、膚の人だった。
 左側にいるその人を見てから、右側にいるおばあちゃんを振り向いたらば、おばあちゃんは春の光が降り注ぐ中で、蒲公英の綿毛のように儚げに見えた。
 まるでそのままどこかに飛んで行ってしまいそうだった。

 地蔵のようにちんまりと、春の土手に鎮座していた。

[2004/2/21]

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