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さくら

 あの人のくびを思いきり絞めていた。

 白くてすらりとした、異国の神の石膏像のような冷たい美しさを持った、あのくびだった。
 触れたくて触れられなかったあのくびを、この両手で思いきり。
 親指を深くくい込ませ、絞める、というよりも潰すように、強く強く。
 ほかにどうしようもないの、ゆるしてゆるして。そう叫びながら。

 刺したり撃ち通したりは厭だった。
 あの人の躰から一滴の血でも流してはいけない。きれいなままで死んでほしかった。

 本当にそれ以外、どうしようもなかったのだ。

 あの人は己の命を護ろうともなさらなかった。
 眉根を少しお寄せになって、透けるような肌の下に最後の血が通うのが見えたと思ったらばもう、次の瞬間には腕が、ぱさりと垂れた。

   *
 
 庭には大きな桜の樹があった。
 堅くこわばった焦げ茶の幹と対照的に、柔らかく儚い色の花びら。
 なぜだかわからないが、嫌いだった。
 春になる度、幼い私はその樹の根元に立ち、次から次へと散る花びらをかき集めたものだ。
 厭だったのだ。何故散り急ぐ。
 そうして、その花びらをまた埋めた。
 土に戻れ、幹に戻れ。風に乗って行ってはいけない。
 そうしなければ、その樹が枯れてしまうような気がしたのだ。

 桜の下には死体が埋まっているのだよ、だから桜はあのように美しく散るのだ、美しく散り損ねた亡者の無念がそうさせるのだね。

 そんな話を、はす向かいに住んでいた老婆に聴いたのは、その儀式のような埋葬が習慣化して五年もたった頃だった。
 恐ろしいとは思わなかった。
 人の気持ちというものは死んでも尚残り、花まで咲かせるものなのか。人畜無害の極みではないか。
 子供心に、そんな風に感心しただけである。
 その老婆も、見慣れた家が色のない幕で包まれたかと思うと、ふっといなくなっていた。
 
 どこにいってしまったの。

 幼い問いかけに、大人達は困ったように笑い、はぐらかした。
 空に昇ったのですよ。
 欲していたのは、そんな子供だましの言葉ではなかった。彼女はあの小さな体を、桜の下に沈めたのだろうか。

 しかしあの家には桜がない。

 桜がなくては、行き場所がないであろうに。
 冷たい無機質な墓石の下で、老婆は無念を抱え続けているのに違いない。彼女の無念はどこへ行くのだ。もしかしたら、

 それが知らないうちに墓を抜けだし、庭の桜に宿っているのではないか。

 そんな妄想に捕らわれ、どうしようもなく恐ろしくなり、春が来るのを待ちわびた。春になって、花片とともに散ってしまえばいいのだ。しかしそれまでは、

 あの樹に死人が宿っている。

 結局その次の春、桜は咲かず、奇癖となっていた花片の埋葬は、ぴたりと止んだ。

   *

 あの人を埋めた。桜の樹の根元に、深い深い穴を掘って。
 土をかける前に、あの人の白い頬に桜がおちた。

 ひらり。

 ああ、季節は春なのだ。
 そこでふと思いつく。桜の花を集めて、あの人の上にかけてあげよう。花びらをふとんにするなど、いつか読んだ外国の童話のよう。

 とても良い考えに思われた。
 冷たい真っ黒な土を、あの人の上にどさりどさりとかけるなど、とても。

 花びらがすっかりあの人の姿を隠したので、その上にきれいな茣蓙をかけてあげて、少しずつ土を落とした。
 少しずつ、少しずつ。
 土が茣蓙にあたる、ぱらぱらとした湿った音を聞きながら、とても楽しい気分になった。子供の頃、母の傘に落ちる雨の滴を聞いていた時のようだ。
 ぱらぱらと。落ちろ落ちろ。あの人を隠せ。あの人を保て。

 あの人をいつまでも。

 そのうち茣蓙の端も見えなくなったらば、更に心が軽くなった。口笛でも吹きたいくらい。
 これで何もかも大丈夫なのだ。あの人は桜と共に永遠に残るのだわ。
 そう思ったらば、もう何もかもがうまく行くような気になった。

 丸い小さな石を最後に添えた。

   *

 数日は何事もなく過ぎた。まるで何か重大な決心を終えた後のように、潔さとでもいうのだろうか、それともただの開き直りか、妙に心が軽かった。もうどうにでもなれという気持ち、そんな刹那的な感情に溺れていたのだ。
 二十日目だろうか、もしかしたらもっと前だったかもしれない、急に妙な気持ちに襲われる。
 どうしようもない不安。
 もう一度あの人の顔が見たい。
 どうしても見たい。
 いったんそう思ったら、もう止まらなかった。庭の隅の丸い石が、気になってしょうがない。あの下にあの人が、桜の薄い花びらに埋もれているのだという事実が、一秒も頭から離れない。

 見たい。

 満月の夜にどうしても寝つかれず、しわのよった布団が厭でたまらず、からりと庭に通じる戸を開けた。
 月の光というものは、このように明るく、闇を照らすものであっただろうか。
 いつもの隅にふと目をやると、風もないのに、さくらが、はらはらと散っていた。

 また。一体何の未練があるというのか。

 その瞬間、なんとも言えぬ気持ちが、躰の芯の方からぐらりと起きあがった。
 あの人を見なければ。
 裸足で庭に下り、石を横に投げやり、手で必死に土をかく。
 ついこの間掘り起こした地面が、指の跡を残して窪んでゆく。
 じわりと湿った土が、爪の隙間にぎゅうぎゅうとつまる、髪にぱらぱらとかかる。
 そして口の中には、ざわり、と、血の味がした。

 茣蓙の表に指が触れて、ふと我にかえり、同時に、身の凍るような恐怖に包まれた。
 何をしているのだ。
 この膝の下に、この指の下にある朽ち果てたものを見たくて、夜中にひとり土をかいているなど、正気の沙汰ではない。
 恐ろしさに立ち上がることもできず、あの人だったものの上に膝を突いたまま、動けなくなった。

 風もないのにまた、ひらりと桜がおちて。

 こえがきこえる。

 「なぜ戻られた」

 ああ、あのひとが、

 「たわむれですか」

 ゆらりとおきあがり、

 「すべてを」

 しずかにほほえまれ、

 「狂わせるおつもりか…」

 きがつくとせなにとりついていた。

 あの方は最後に見た時とまったくお変わりがなかった。肌は透き通るように白く、瞳はしっとりと濡れていて。
 そうしてふと、気がついた。
 生きていらしたのだ。殺してしまったものだと思いこんでいたけれど、生きていらしたのだ。
 桜の下で、土に埋もれて、けれどひっそりとこの方は、生きていらした。
 掘り返したりしなければ、妨げるようなことをしなければ、そこでいつかは土となり、桜のごつごつとした幹をのぼり、春には新しい花びらを開かせたのであろうに。
 早すぎたのだ。
 いや、もう二度と、掘り返してはいけなかったのだ。
 私は禁忌を犯したのだった。戻ってはいけない道を引き返してしまい、もう二度と、二度と私のいた場所を見つけることはできず。

 そしてそれ以来、あの人は離れなくなった。
 両の肩に、くいいるように手をおかけになって、ぴたりとおぶられている。重くて仕様がないのだけれども、離し方がわからない。立っているのがとても辛い。

   *

 ある日、ふとした事で庭に出た。
 あの夜掘り返したままの穴の縁に立つ。
 覗き込んでみると、中はまるで底なしででもあるかのように真っ暗く、何も見えず、くらくらと目眩がした。
 思わず一歩後退しようとした瞬間。
 肩にかけられていた手がふっと離れ、躰が軽くなり、後ろを振り向こうとした刹那、次には背中を思いきりどんと押され、その中へ墜ち深く深く墜ちて行く間、首をひねって見上げれば、穴の縁にあの人が佇んでいらっしゃる。ひどく悲しそうに、けれど穏やかな瞳で、微笑まれながら。
 その時、悟ったのだ。これが本当のお別れだと。もう二度とお目にかかることはありますまい。お別れなのだ。
 本当はもう、とうに訪れているはずのものだった。

   *

 底があるはずの穴にもはや底はなく、今日もまだ、暗闇の中を墜ち続けている。
 何時の間にやら唄が聴こえていた。
 五臓六腑に染み通るような、悲しい唄であった。
 どこかで聴いたことがある。
 いつ聴いたか、どこで聴いたかは思い出せもしないが、その思いはいつもいつも、この心の中にあったのだ。そう、この世に生まれ出づる前に、遥か昔、母の子宮の中で聴いていたような。

 もう何も見たくはない、聴きたくはない、感じたくはない。
 話したところで誰も理解してはくれぬ。
 言葉が通じないのだ。
 気がついてみれば、そう、昔からそうだった。

 桜の下で死んでいたのは、あの人ではなく…。

 さくらなど、とうに散りつきていた。

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