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かわも

 「哀れな方なのです。お泣きになられました。
 あなたのお名前などは一度も口にだされなかったけれども、私にはわかります。あなたを待っておられた。」

 そう告げる女の声は恨みがましいものではなかったが、男は多少の罪悪感を抱いた。

「最後は発狂寸前でした。ご想像には叶いますまい。どちらにしろ長くはなかったのでしょうね、あれでは」

 「あの強い娘が、己が命を絶ちかねた…とでも仰るか。」
 聴くに耐えずか、男が女の言葉を遮った。
 不思議に重みのある低い声音には、底知れぬ怒りが込められているのが、女には容易に聞き取れた。薄く紅をひいた口元に笑みを浮かべ、蔑むような口調で彼女は、しかし静かに言葉を続ける。

 「神経が衰弱していたのです。最後にあの方が帰りたがったのは、御家族の元ではなかった。
 あの方を強いと仰るなら、それはあなたがご存知ないからです。」

「あれに関して存じていない事など、」

 そこで男は口をつぐむ。

「ご存知ない事、ばかりでしょう。」女が男の本心を見透かしたように言った。

「確かに。しかしそんなことは我々にとって、たいした意味はなかった。
 あれの名が何であろうと、どこの出であろうと、同じことだったのです。過去のことや、親にもらった名前が何の意味をもちますか。どれほど悲しくとも、どれほど汚れていようとも、あの時生きていたこと、ただそれだけです。
 刹那的ですか。そうなのでしょう。
 不思議なものだ、私は、さだめ、などというものは信じません。けれど」

 ざざ、と音がして桜が舞った。
 川面に花びらがひらひらと落ちて行く。川はゆるやかにその花片を押し流し、やがて柳のもとで大きくカーブを描いて消えた。

 男はそこで口をつぐんだ。
 散った花びらを、まるでわが子を見るかの如き目つきで見つめ、ふっと息を一つ吐く。
 女は空を仰ぎ、眩しそうに目を細める。見上げた空には薄い雲が蓋をしていた。
 しばし沈黙が二人の間に鎮座する。先ほどから、この男女はお互いに、決して視線を合わせようとしない。

 川に沿って植わった桜の枝が、今度は風もないのに、お互いを押し合い、さわさわと揺らいだ。

 「大人になられましたな。」

 男が、思い出したように呟いた。
 「覚えておいでですか、あなたが幼少の頃に、私とは一度お逢いしている。まだあなたは前髪を切り揃えた童女で、垣根にのってしまった鞠を取ってくれと、私に頼んだのです。」

 話題の主がいきなり自分に移った事を、女はすぐに察しなかった。男は続けて

 「大人になられました。
 あれを看取って頂いたこと、かたじけなく思います。
 忘れていたとか、気にかけなかったとか、世間の人は噂しているようですが、決してそういう訳ではないのです。片時も忘れたことなどござらぬ。何度迎えに行こうと思ったかも知れない。
 ただ、できなんだ。
 恨んでいるのではないかと思うと、いや、恐ろしかったのです、もう私の事など忘れているかもしれないと思うと、行けなかったのです。自分があれにとって何の価値もないただの行きずりだと認めるのが恐ろしかった。裏を返せば、私はあれを信用していなかったということなのかもしれないが…」

 男の話法が妙に攻撃的であることに、そしてそれが声の震えを隠すためであることに女は気づいた。さらに、男の動作の隅々に現れる喪失の無念を見て取ると、同情するように眉根を寄せて横を向き、己の細い肩に落ちた花びらを払う。

 彼女は知っていた。
 喪失。それは、埋めようのない深い穴だ。
 去る者は日々に疎しというけれど、それはただの錯覚にすぎないに違いない。穴はいつまでも埋まることはなく、ただ表面に日々の芥が降り積もり、穴に蓋をし、あたかもそれが埋まってしまったかのように人は振る舞う。けれど何かの折りに、芥は取りさらわれ、その穴の中を風が吹き抜ける。軽い蓋では、風を跳ね返すことは叶わない。
 喪失の穴に一度堕ちれば、這いあがることは容易ではない。
 また、落下を望む自分自身が。

 男はそれきりで口をつぐんでしまい、向こうの河岸に設けられた花見用の提灯などを眺めていた。早々と灯が入れられている所を見ると、もう日没も近いのであろう。

 女が口を開く。

 「自分をお責めになられますな。あなた方はいつもすれ違っておられただけなのでしょう。あの方とて、恐れておられたのは同じ事。言葉を尽くしても伝わり難い男女の情です。ましてや短いご縁だったあなた方には何の約束事もなく、頼りにするものもございませんでしたのでしょう。」

 そこで一端言葉を切り、再び

「哀れな方なのです。」ぽつりとそう言った。

 男に向かってというより、己に言い聞かせるような口調であった。

 川面を渡る風が冷気をふくみ始めた。距離を置いた二人の間にさくらが散り、壁ができる。
 違う世界の人間ではない。むしろ同類だ。女は思った。
 話すべきだろうか。
 その女の心を見透かすように、男は視線を対岸にやったままの姿勢で言った。

「なにか、まだ。」

 女が、はっとしたように顔を上げる。

「なにかありますか。私に仰りたいことが。」

「いえ、あの…」

 戸惑った。男は構わない。

「仰りたくなければいいのです。あなたにお任せすれば何も心配することはないのではないかと思います故。」

「…ご存知なのですね。」

「いえ、存じませぬ。」

とぼけているのか真剣なのか、女に男の心は読めなかった。

 「負担でなければ、私はあなたにお任せしたいのです。
 どのような結果になろうとも、あなたを責めるようなことはいたしますまい。譲り受けては、くださらぬか。」

 次に訪れたのは前にもまして長い沈黙だった。
 女はためらっているのではない。男の真意を計りかねているのだ。
 男は柔らかな面差しで、微かに笑みさえ浮かべているように見える。すべての悲しみの後に訪れる、ぼんやりとした幸福感を味わっているのであろうか。
 空の雲が、西から紅く染まっていった。

 「ご迷惑であったか。」

 男の言葉に、女は静かに首を振った。

 「いいえ、そのような…。
 ただ一つお尋ねいたします。それでよろしいのでしょうか、本当に。お側に置かれたいのではないかと邪推いたし…」

「言われるな。」ぴしゃりと男が遮った。女は言われるままにそこで言葉を切り、ただ一言、

「わかりました。」

そう頷いた。それを聴いて、男は安堵の顔になり、初めて女を正面から見据え、

「かたじけない。」

 深く頭を下げると、来たときとは反対の、川下へ向かって歩き出した。
 女はその後ろ姿をじっと見つめていたが、やがて惚けたようにうつろな目をして一言、消え入るような声で問いかけた。

「どうお想いだったのです…なぜ、捨て置かれたのですか。そのような苦しい日々をお過ごしになった理由は、何なのです。」

 ざわり、と風が吹き、既に散っていた地上の花片をも舞い上げて、男の後ろ姿を霞ませる。
 その風の中を通り抜けて、男の低い声が届いた。

「抜け出せぬ、穴に堕ちたのです。
 道を迷ったのです。
 我々は、二人とも。」
 
 桜の名なのだ。
 散りやすい、儚い、だからこそ美しい。
 人の心を翻弄する、心にくいと詠んだ古人もいたか。
 春に逝った母上の、悲しい性を継いでいたのだ。
 気がつけば太陽は、雲に隠れたままその姿を地に沈めたようであった。
 川沿いにどこまでも続く満開の桜は、ぼうと白く光り、薄闇の蒼さの中に浮かび上がる。
 いつの間にか、彼女の肩には、再び花弁が積もっていた。

 逢魔が時であった。

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