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いちぶんの参六〇
まずは「善意で人を救えない」という現実がある。
厚意の供給が需要に追いつかないんである。
私は貴方に百回「私は私で良いか」と問いかける。貴方はその問いに百回同じ答えを返さなければいけない。「貴方は貴方のままで良い」と。誠意をもって。
たったそれだけのことが、しかし繰り返しているうちに貴方のなかで私の存在をねじ曲げ始める。貴方の中で同じ問いを百度繰り返す私に生じる。「嫌気」。多分真面目になればなるほど、肯えども肯えども尚「私は私で本当に良いのか?」と言い続ける私に嫌気がさしてくるのだ。必ずさしてくるのだ。それ即ち、厚意の供給が需要に追いつかない、ことであり。
Read More... 私を百回肯うために、必要なのは誠意ではなく厚意ではない。
私を百回肯えるのは、上っ面の対応と中身のない薄っぺらの言葉だけ。
時間の切り売り。心療内科の皆様方。
大事な人を救いたい立場にも、逆に自分が救われたい立場にも立っているのでその矛盾がわかる。善意で救ってほしい。けれど善意では追いつかない。心療内科ではなく、貴方に私を肯ってほしい。貴方にそれはできない。私ができないのと同様に。
いったいどれだけ肯えば満足なのだ。と、思う。私が肯えば肯うほどに問いかけは尽きることがない。自分で自分を肯えるようになるまでそれは続くのだと思う。私は、「自分自身」の代用なのだ。
そしてまた私が貴方に対しては同じ手枷足枷に成りかねない。私は貴方に「私でいい?」「私でいい?」を繰り返して、貴方が善意で答えているうちはいいけれどきっとそこを食い尽くして尚「私でいい?」を繰り出し続けて、貴方のことを浸食していくのだ。そうした時に貴方から引き出される答えは最早肯定ではない。否定だ。
真摯に向き合おうとすればするほどに、全身で受け止めようとすればするほどに、支えきれないし受け止めきれないのがコレだ。
だからたまに目をそらします。
私は其処から目をそらします。耳を塞ぎます。塞いだ掌の隙間からも呻き声が聞こえてくるけれど、聴かなかった振りをするしかない。
そうして目をそらし耳塞ぎ、自分の中に善意をチャージする時間をとらないと、私はきっと刃物に変わる。
許されよ、君。
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2005.12.13.11:52
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