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カワス
僕と私と私と貴方、貴方とカノヒト、カノヒトと私、私と僕と君と私と。そして人々。私のバックアップ、貴方のバックアップ。私のバックグラウンド、貴方のバックグラウンド。カノヒトのバックアップとバックグラウンド。そして人々。人々のバックアップ。
カノヒトにとって「交わす」、ということはノーマル。愛でも言葉でも接吻でも良い、それはノーマル。
私にタブー。
背負ってる肩書きというものの差違。背負ってきた過去の差違。器としてではなくて、中身の差違。
条件を並べてる。私のモチモノを並べたてる。家族、健康、お金、住むところ、出かけるところ、記憶、経験、呪縛、負担、きもち、何もかも。私は今それなりにシアワセ。他の人からそうは見えないかもしれない状況にあるかもしれないけれど、私はやっぱりそれなりにシアワセ。出逢った人達に出逢ったことを悔やまない。私はこれで、それなりにシアワセ。
Read More... 私よりたくさんモチモノを並べられるけれど、私よりシアワセでない人がいる。私のモチモノとその人のモチモノをそっくり入れ替えても、その人が今の私のようにシアワセ感じられるかはわからない。私のモチモノの価値がわかるのは私だけだから。私にとっての健康の価値と、病気の人にとっての健康の価値がケタ違いなように。
失ってわかる価値だったり、手にしているからわからない価値だったり、他の人のものだから美しく見える価値だったり。
誰にとっても誰をもシアワセにするモチモノというのはあり得ない。精神的なシアワセというのはなかなか掴むのが難しい。欲して欲して欲した挙げ句に獲得しても失うことを常に畏れていたらばそれはシアワセとは言い難いかもしれない。それは自分を本当にシアワセにしてくれるモチモノじゃないのかもしれない。
アレがあればシアワセ!
とか思い続けるのにもう飽きた。
じゃあ逆に、自分の中から何が無くなれば今シアワセ?かと考えを変えた。
何を切り捨てれば今シアワセ?なのかと。
貴方ではなかった。
カノヒトの存在でもなく。
一番重い記憶でもない。
あなたがた無しに私は何も考えることはないから。
考えないのならば言葉は出てこない。
それは私にシアワセではない。
失うのではない、自分から抛るんだ。
要らないものと余計なものを自分から抛るのだ。
他の人からそうは見えないかもしれない、私はモーニングスタァ、突き出しまくったとげとげを抱いて歩いている、そのとげとげは貴方に磨かれる、他の人からはそうは見えないかもしれない、私は損な役回り、私はそれを嘆いて当然の立場、尖ったとげとげを抱いて結局はタブーの領域に取り残される、他の人からはそんなふうに見えている。
けれどシアワセ。
それなりにシアワセ。
私は私のモチモノの価値を知っている。
私が私のモチモノのほんとうの価値を、その半分も知らないことを知っている。
出逢ったことを悔やまない。
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2004.05.15.23:01
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